山口の神社仏閣★松江八幡宮(宇部市) 手水鉢・拝殿・本殿編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



先月、歩きに歩いて、宇部市にある『松江(しょうごう)八幡宮』へ参ったRieruです★


謹んで拝殿へ・・・息が整うまで待って!


イテテ


(階段で息が・・・)


ヨロヨロとゆ〜っくり、歩きましょう。


途中、井戸を見たり、

八幡さま(応神天皇)を見たり・・・


八幡宮の主祭神は、『仲哀天皇』、『応神天皇』、『神功皇后』で、配祀神は、『住吉大神』、『武内宿禰』になります。


読みこそ違いますが、山陽小野田市にも『松江八幡宮』があり、興味深いところです。

地図を見ると意外と近いので気にはなっていたのですが、昔は宇部市と山陽小野田市の別は関係無く、どちらの八幡宮も『須恵村』という、ひとつの村のまとまりの中にあったのだとか。
なぜ、同じ名称の八幡宮が一村に?ねっ、気になりますよね?

こちら、30年前に奉納された立派な手水鉢。


『洗心』・・・心を洗うキラキラ


この手水鉢に、石製の亀さんがおりました。


亀汁を注いでいる図?


タートル図!



イテテ



(てか、1匹だ・・・)



やっと拝殿に着きました。謹んで参拝致しましょう。



説明板の由緒は、このように書かれていました。


   仲哀天皇時、三韓出兵の為 御西下の際、穴門国(長門国厚狭郡)で伐採材木により軍船を造られた。この時、御神託によって住吉大神を祀り、海上の平安を祈って幣を残して去られた。当時の人々はこれを敬い、祠を建てて幣を納めて奉斎した。この所が、東須恵岡の原(現 岡田屋)であり、当社の起りである。

  その後、厚東氏五代武仁公が祠を再建し、奈良時代の宝2(771)年に宇佐八幡宮を勧請し、高松太郎衛門尉武彦(白石家祖先)に祀らせて神領を付置した。厚東氏没落後は、大内左京大夫政弘公が領主となり、当郷所司代 三戸佐渡守有次が、室町時代の寛正6(1465)年、これを薬師山(壁田)に遷座して、社殿を建立した。以来、この社を松江八幡宮と奉称する。

   その後 江戸時代の万治2(1659)年、東須恵8ヶ村の氏子が再建立し、永き年月の間修理して神威の発揚に努めた。

   明治初年(1868)年、現社号に改称し、明治14(1881)年、社殿の大改築をした。これが現在の本殿及び拝殿である。


なるほど。

文中の壁田村は、『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の中に書かれている『神戸(かむべ)郷』ではないか?という話があります。

『宇部』の地名の由来は神戸説があるようで、かむべむべうべ!と言った感じ。

例の植物の『ムベ』説もありますが、神戸説はピンポイントすぎかな〜とも思います。謎ですね。


拝殿には毎年書かれているのか、今年の干支の『丑』が掛けられていました。


・・・これは!トータスの甲羅?


トータス松江。



イテテ



(読みが違うし!てか、近くで拝見してないから甲羅じゃないかも〜)



幣殿、並びに本殿。



画像が前後しましたが、 拝殿の彫刻が素晴らしいのです!

そして、本殿の彫刻も!


細部まで・・・匠の技が光ります。



ウチもこんな彫刻を窓に飾りたいな〜。



・・・恐らく、飼い猫が入れ代わり立ち代わり、爪を研ぎに使われると思いますよ?



アイタタタ



(木製は狙われる運命)