(山口旅の続きから)
ようやく常栄寺の本殿に辿り着いたRieruです★
本殿に続く階段を上がると、大きな屏風が出迎えてくれました。
『群馬図屏風』
説明にはこのように書かれていました。
桃山時代から江戸時代初期にかけて、雪舟の画風を受け継ぎ、発展させていった画家たちを雲谷派(うんこくは)といいます。
この群馬図は17世紀から19世紀頃に雲谷派の画家により描かれたものと思われます。伝雪舟とも言われていますが落款も不鮮明で年代、作者とも不詳です。
失礼します。
謹んで撮影させていただきました。さすがに本尊である『千手観音菩薩』にiPhoneを向けるのははばかられましたので画像はありません。
こちらの観音さまは、元々国清寺(現 洞春寺)にあった本尊でした。
気が付くと、周りに約10人ぐらいはいらっしゃったのではないでしょうか。広いし、戸という戸は開け放たれていたので密にはなりませんが、それほど雪舟庭に興味を持つ方が多いということが分かります。
しかし、私のようにひとりで訪ねらた方はいらっしゃいませんでした。(もちろん時間帯と日によってはいらっしゃると思います)
あら、明治23(1890)年の創業から作られ続けておられる、『中外燐寸社』さんのマッチではありませんか!
創業者である田中鹿子吉さんの奥さまが見た夢のイメージを図案化したものなのだとか。
パッケージに『脱硫(だつりゅう)』とあります。その昔、マッチには硫黄が使われていた時代があり、そのマッチの煙(亜硫酸ガス)が喘息の発作を誘発していました。
4代目の社長のお母さまの喘息の発作で苦しまれている姿を見た田中正彦(つまり社長)さんが20年の歳月をかけて硫黄を使わなくても火が付くマッチを開発されたそうです。
この中外さんは、雪舟さんの出身地である岡山県に本社があるので…という訳では無いですが、たまたまでもつい気になってしまいました。
気になる物が多くて、全然雪舟庭に辿り着かないのですが…
あっ、こんな場所に毛利家の家紋が!…ってね。もちろん手彫りです。
こちらも、もちろん手彫りの木魚。
芸術品というしかない代物ですが、新種の生物のようにも見えてくるから不思議です。使い続けていると、味わいが出ますよね。
木の持つ美しさと味わいにため息をつきながら、『南溟庭(なんめいてい)』と呼ばれる、『雪舟が明に行き、帰国するまでに往復した海をイメージした』お庭を拝見することに。
まずは右見て
左を見させていただきました。
なんか波紋のような?なるほど、海を表現されているのですね。
検索してみると、『南溟』という名の由来は安田天山老師がとある書に書かれていた、『北溟影の世界、北の涯(はて)のない暗い海』、『南溟は陽の世界、果てしなき南の海、彼岸をのぞむ光明の世界』にちなんで付けたようです。
で、この老師は重森三玲(みれい…古典造園の復元・修復や創作の大家)に、「雪舟より良い庭を造られては困るので、下手な庭をヨロ★」と依頼(←え?)しました。
昭和43(1968)年にはもちろん、このような素敵なお庭が完成しましたよ!そりゃあ、老師の依頼なんて聞きやしませんよ。プライドが許さないですよ。
雲谷派の画家による『山水図屏風』ですが、落款が無いので誰によるものか分かりません。もちろん、年代も不詳です。
屏風について調べてみると、面白いことが書かれていました。
雪舟さんも乗った遣明船。贈答品として必ず船には三双もの屏風を送(贈)っていたそうです。
“双”という字の通り、画像にあるような屏風が計6点ということになります。(屏風一点を一隻とか半双と呼ぶようです)
ということは、雪舟さんが描いた屏風も中にはあったかもしれませんね。(←いつもテキトーなこと書いて…)
ちなみに日本における最も古いものは、686年に新羅から贈られたものになるようです。
は〜、中国(唐)からじゃないんですね。教科書に書かれているより、もっとずっと新羅と日本は関係が蜜だったようです。
作者不詳が続きますが、こちら(レプリカ)もです。
『郡山城下図』
例の広島県にあった毛利さんの居城『郡山城』が描かれておりました。
なぜ、こちらに掛けられているのでしょうか?
常栄寺や妙寿寺が描かれているようです。
ふーん、常栄寺、常栄寺…あっ!
『元就公御誕生地』ミッケ☆
常栄寺、常栄寺…
あった!
てか、雪舟庭は? チラッ
…待て、次回。
アイタタタ
(またそれか!)