東京の神社仏閣★靖国神社 遊就館編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。




再来年の成人式で着る着物(レンタル)が決まった娘Aですが、前撮りは別の着物も借りることになり、満足しているRieruです★

・・・懐はイタいですけど。


イテテ


(支払いは来年の秋頃までなので安心ですが☆)


娘Bの時も「お姉さんがそうなら私も!」と言うんだろうな〜と予感している女は、その娘Bが某韓国男性グループのコンサートを観に行く件で、先月上京していました。
東京か・・・いつか東京に行くなら、大村益次郎(益ちゃん)の銅像があるという靖国神社へ行きたい!といつかの記事で書き、今回の東京行きで実際にこの目で見ることが出来ましたが、じつは3年前にも靖国神社へ行きたい!と書いた記事がありました。
広島県呉市在住のナユミマさんと江田島市にある、海上自衛隊江田島第1術科学校へ見学に行った時、教育参考館内の展示も見学させてもらうことに。

屋外にあった特殊潜航艇を観て、現存する回天がある(らしい)靖国神社へ足を運びたかったんですよね。
その現存する回天が展示されている、靖国神社境内の『遊就館(ゆうしゅうかん)』・・・


わっ!入口がめちゃくちゃ高いのですが!

いや、入口はその右側です。


入る前に、屋外に展示されたものが気になります。

『青銅八十封度(ポンド)陸用加農砲』


この砲は、安政元(1854)年湯島馬場大筒鋳立場で鋳造され、品川台場に備え付けられたそうです。

そしてドリンクが多く並べられた銅像『特攻の勇士』が建っていました。


銅像の近くには石碑の説明があり、陸軍航空少佐以下 1344名、義烈空挺隊奥山少佐以下 88名、戦車隊丹羽准尉以下 9名、海上挺進戦隊岡部少佐以下 266名、海軍航空関大佐以下 2514名、特殊潜航艇岩佐大佐以下 436名、回天上別府大佐以下 104名、震洋石川大佐以下 1082名・・・と刻まれています。

屋外にはまだまだ気になるものがありましたが、時間が無いので取り敢えず中へ・・・あら、鳩!

『鳩魂塔』

軍用伝書鳩の慰霊碑のようです。動物の慰霊碑は他に犬や馬もありましたが、また後で。

暗くなったら、こちらが灯ったところが見てみたい・・・


ほら、時間!

駆け足気味に見学しなければいけませんが、2階の常設展へ(大人)販売機で1000円を払って、エスカレーターを利用して上がります。


1階の玄関ホールは、また後で。

2階は近代史を学ぶゾーン①(明治維新〜西南戦争)、②(日清戦争〜支那事変)で、どうにも撮影する気持ちになれませんでした。

1階に下りると、近代史を学ぶゾーンの続きで③(大東亜戦争)が、そして英霊の「みこころ」に触れるゾーンがあり、展示室16では、オリンピック選手らのことが展示されていました。看護師として従軍した女性選手のことも展示されています。初めて見るタイプの千人針もありましたが、とてもスマホのカメラを向ける気になりません。
そんな私のシャッターが下りたのは、やはり回天を目の当たりにした時です。


『回天 一型改一』


後部の機関部分は復元されたものだそうですが、緻密に復元されているようです。

む!フックがある!


山口県の平生町にある阿多田交流館の屋外にあるものと周南市の徳山港にあるレプリカにもありました。
同市の回天記念館の屋外にあるのは付いておらず、広島県呉市にある大和ミュージアムのものは別のタイプのフックが付いていました。
型が違うと、細かい箇所が違うのですね←当たり前です・・・


回天・・・若者たちが身を呈してまで守りたかった大事な人・・・くくりとしては“国”でしょうが・・・
まーちゃんのセリフを取りますが、“ジジイ”たちが若者たちを追い込んではダメだよ!と怒りで震えます。
きっと多くのジジイが反対したのでしょうが、力で排除されてしまったのは本当に悔しい!

大展示室には他に、瀬戸内海に沈んだ戦艦陸奥の遺物(副砲など)も多く展示されていました。


舷窓破片・・・




水上特攻挺『震洋一型』
もちろんレプリカですが、広島県呉市の方々が10年もの歳月をかけて複製されたそうです。

他には、『ロケット特攻機 桜花』、『九七式中戦車』などが展示されておりました。


艦上爆撃機『彗星』

玄関ホールにも爆撃機はありましたが、正直怖かったです。


あっ!窓にもうブラインドが!急いでRieru!


最後に『泰緬(たいめん)鉄道C56型31号』機関車を。


昭和11(1936)年に日本車輌製造(株)で製造され、石川県七尾機区間で走っていましたが、例の大戦で90両が徴用されたうちの中の31号機です。

徴用されて、一体どこへ?

緬鉄道・・・はい、タイです。昭和17(1942)年6月に日本軍は、ビルマ・インド作戦の陸上補給を目的に、タイ()のノンプラドックからビルマ(甸)のタンビザヤの最短距離 415kmの区間で鉄道建設を始め、鉄道第五、第六聯隊を中心に連合軍捕虜や現地住民など、約17万人が従事して1年3ヶ月という驚異的な早さで昭和18年10月に開通しました。


この区間はかつてイギリス軍が建設を構想しましたが、険しい地形と過酷な熱帯気候などの悪条件で断念したそうです。
そして戦後はタイで走り、昭和52(1977)年に引退しました。
その後、泰緬鉄道建設に携わった南方軍野戦鉄道隊関係者が拠金してタイ国有鉄道から譲り受けて、昭和54(1979)年に靖国神社に奉納されたのだとか。
・・・全然知りませんでした。いろいろありましたが、日本に“帰ってきた車輌”ということなんですね。
数奇な運命を辿った末、現在は遊就館の玄関ホールで見学者たちを迎えてくれていると思うと、相手は鉄の塊なのに胸が熱くなります。

駆け足で見学しましたが、ついにタイムオーバー。外は薄暗くなり・・・うわっ、外はもう灯りが付いてる!ので、屋外にあるものはよく見えませんでした。


でも、例の灯りが見れて良かったです。


わぁ、こんな灯りだったんですね。

まさかの〆が、こちらの灯り?


アイタタタ


(いろいろと考えさせられたのですが、文章にするのは難しいのでm(_ _)m)