下関市『中ノ浜遺跡』は弥生時代の集団墓地です! | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。




昨日、急に暑くなったので、某ドラッグストアにアイスクリームを買いに行ったRieruです★


500円の値引き券が3枚もあるので、使いたくて使いたくて!
約700円分のアイスクリームをレジに出すと・・・

「お客様、今日はポイント4倍になりますけど?」

・・・ぬおー!
先日もポイント何倍かの日で、値引き券が使えなかったんですよ!んで、3枚目の値引き券が出たんですよ!

・・・毎日アイスクリーム買いに来るか?


イテテ


(得なのか損なのか?)


アイスクリームばかり食べてるとまた太るぞ!ってツッコまれそうですが、そもそもアイスクリームっていつから食べられていたんでしょうか?
一説では紀元前とも言われているので、日本の弥生時代には、とある場所(もちろん海外)で、とある人物が似たようなものを口にしていたんですね。
弥生人・・・弥生人!といえば、『古地図を片手にまちを歩こう』川棚コースを終えて名物の瓦そばなどを食べた後、カフェに行きたいであります!と、国分さんに直訴したのですが、いやいやお腹いっぱい食べた後だし、もう帰りま・・・

「近くに中ノ浜遺跡という場所があるらしいんですよ!興味ありません?」

いや、別に・・・全然・・・

「いえ!行きたいですよね?私、めっちゃ行きたいです!そのあときっと小腹が空くでしょうから、カフェに行きましょう!」

・・・ウ、ウン。


イテテ


我ながらトンデもない注文をつけるよな、と思いましたが、“川棚に来ることってあんまりないから特別”に連れて行ってもらったのでした。


あ、“山口県指定史跡”とあります。

じつは(私的に)よく分かりにくい場所にあり、車をちょっと手前に駐車して、少し歩きます。


見えてきた、見えてきた!

近くにあった地図を見ると、こんな並びに。


看板が2枚あり、そのうちの1枚には、このようなこと(抜粋)が書かれていました。

中ノ浜遺跡は、北の土井ヶ浜遺跡(下関市豊北町)、南の梶栗浜遺跡(下関市大字富任)とならんで、響灘に面した砂丘上に営まれた弥生時代(前期〜中期)の集団墓地です。響灘沿岸は北部九州とともに弥生文化を最初に大陸から受容した地であり、全国でも有数の規模を誇る弥生人の埋葬地が次々と発見されています。
    当遺跡では、昭和35年以来、9次にわたる調査が行われ、100基余りの墓と104体の弥生人骨が発見されました。
    これらの人骨から見ると、土井ヶ浜遺跡の人骨に似て面長で、かつ長身という特徴を持っています。顔が丸く、背の低いそれまでの縄文人とは大きく違っていることから、ここに葬られた人々は、弥生文化をもたらした渡来系の人であったろうと考えられています。


2枚目にはこのようなこと(もちろん抜粋)が。

墓の種類はさまざまで、ただ単に墓穴を掘っただけのものや、隅に石を置いた配置墓、箱形に組んだ石棺、棺に土器を使用した墓などがあります。
  また墓に供えられた副葬品には、ムラ長の権威を示す武器、装身具、壺などがあります。


へぇ〜、いろんなお墓があるんですね。

ギョッ!としたものを見つけました。


『左手を埋葬した壺棺』・・・ハイ?
左利きの方だったのでしょうか?
その左手は“特別”なものだったから、わざわざ壺に入れたんですかね?


長身だったらしいですが、“縄文人より高い身長”というだけで、170cmくらいあったわけではないみたいです。
男性でも163〜165cmくらい?

後で調べてみると、土井ヶ浜遺跡より少し古い遺跡らしいですね。
“浜”と名前が付いているから、本当、海に近い場所にあります。
ずっと海の傍にいては災害も少なくなかっただろうから、内陸へ移動して行ったんでしょうね。
もしくは弥生時代後期あたりで、ムラ同士の戦いに巻き込まれることもあったかもしれません。
勝ち残ったグループ、ムラの中から豪族などが生まれ、“墓地”から“古墳”を造るまでになったんですかね。そしてさらに・・・
渡来系の人たちが最初に居着いた場所のひとつが、中ノ浜(遺跡)ですか・・・ってよく考えると、ここは弥生時代の墓地。


そしてここにたどり着くまでに現在の墓地が並んでいるんですよ!
弥生時代の墓地近に現在の墓地・・・
いつか自分も墓の中に入るんですけど、ちょっとチビりそうになりました。

・・・緩くなったんじゃないの?


アイタタタ


(スクワットでもしてくださいm(_ _)m)