昨年からずっと・・・気になる方がいるRieruです ★
ジャニーズの、あの人?
イテテ
( いや、あの人は去年からじゃないし )
昨年、平生町の神花山 ( じんがざん ) 古墳を訪ねた時、駐車場近くにあった回天記念碑。
終戦後に自決をされた方がいらっしゃるのを、こちらの案内板で知ったんですよ。
終戦日は15日、自決された日は18日。
うーん・・・なんだかな~。
なんで自らの命を・・・かなり思いつめてしまってたのかな。
出撃する機会が無かったからかな。
行き場のない悔しさや脱力感から自決に走ったのかな?と思っていました。
自決されたのはこの方、橋口寛さん。
当時21歳で大尉でした。
「 亡くなったら階級が上がるのよね?」
回天訓練中に亡くなった方は1階級上がり、出撃されて亡くなった方は2階級上がります。
しかし、自決だと ( しかも終戦後 ) 階級はそのままです。
なので21歳の若さで大尉というのは、ものすごいエリートさんなんです。
そもそも橋口大尉って、どんな方なんでしょ?
大正13 ( 1924 ) 年7月15日生まれの鹿児島県出身。
大津島基地 → 光基地 → 平生基地を転任し、何度も出撃を望みましたが許されませんでした。
回天の操縦が上手すぎる為に、教育訓練担当の教官として残されたそうです。
細やかな心配りを忘れず温和で優しい人柄に、訓練中の搭乗員たちは敬意を払っていました。
けれど、そんな搭乗員たちは大尉より先に出撃・・・やるせない、歯痒い気持ちで出撃を待つ日々を送ります。
送り出す時は誰よりも「後から必ず行く!!」と大きな声で。
幾度か血書 ( 自分の血で書いた文書・・・大津島の回天記念館にあります ) を嘆願した結果、昭和20 (1945 ) 年8月20日頃を期し、神州隊の特攻隊長として出撃することを許されました。
しかし、8月15日に終戦。
知らせを受けた搭乗員たちは平生基地の草むら ( 阿多田の山 ) に集まり、今後の身の振り方を話し合いました。
この時は大尉に自決する気配は微塵も感じられなかったそうです。
でも腹では覚悟を決めていたようで、終戦から3日後の18日午前3時・・・平生の回天基地にあった自身の乗る予定の回天に第 Ⅱ 種軍装に身を包んだ姿で大尉は自らの胸を拳銃で打ち、自殺されました。
( 海軍の第 Ⅱ 種軍装 )
その自決する数時間前は、仲間たちと酒を酌み交わしています。
その席で、大尉はどんな気持ちだったのだろうかと想像すると胸が苦しくなります。
阿多田交流館には、大尉の実弟さんが寄贈された自啓録が展示されています。
ガラスケースに入っているので、最期の日の18日しか拝見することはできませんが、海軍兵学校に入学されてからのことが短歌や文、決意などが克明に記されており、国を思う心焦、家族や同期生あるいは部下達への配意など、大尉の人柄や心情が伺い知ることが出来るそうです。
このページの最後には高杉晋作サンの詩 ( 完全に正確ではありませんが ) が添えられていました。
後れても 後れても亦 卿達に 誓ひしことば われ忘れめや
・・・
ただひたすら祖国を守り抜こうと生きてきた大尉・・・新しい時代で生きることを他の搭乗員たちに託して、自らは先に散ったことがわかりました。
記録には残されていませんが、大尉のように自決をした方は少なくなかったかもしれません。
少し視点はズレますが、『 永遠の0 』の宮部久蔵さんと重なったりして・・・
阿多田交流館の館長さんのお話で不覚にも涙を流してしまいましたが、ちゃんと大尉の真意が知ることが出来て良かったです。
きっと一生誤解をしたままでしたよ。
自殺は良くない ( ←『 TOO YOUNG TO DIE!若くして死ぬ 』で、鬼も言ってた ) けど、私が大尉の立場だったらもしかして同じ事をしていたかもしれません。
・・・ってか、その前にエリートにはなれません。
アイタタタ
( だから、もしも〜! )