道の駅 上関海峡で販売されていたお土産のクリアファイルを見て、上関にも御茶屋があったことを知ったRieruです ★
ご存知、上関は北前船や参勤交代の九州諸大名など船での往来が多くありました。
そのため、ここの御茶屋は大名や朝鮮通信使の一行などをもてなす迎賓館としての役割を果たしていたそうです。
(っ∵ ) ほ~・・・
御茶屋としてだけではなく、朝鮮通信使一行の迎賓館にも。
ソウルから東京 ( 江戸 ) へ行くまでの間、各地に設けられた御馳走場所が上関にもあったんですね。
道の駅からほど近くにあるそうなので、訪ねてみることにしました。
車では行けませんので、漁協の駐車場 ( 教育委員会さんに了解をいただいて ) に。
近くに “ いかにも ” という看板があり、そこには『 唐人橋跡 ( 朝鮮通信使上陸の地 ) 』と書かれていました。
と、とうじんばし?
訪日の時、雁木の上に萩藩が仮設の桟橋を作ったそうです。
画像の赤丸がその桟橋、唐人橋らしいです。
この絵は『 朝鮮通信使船上関来航図 』とよばれ、1821年に田能村竹田 ( たのむらちくでん ) によって描かれたものです。
( 超専寺 蔵 )
この唐人橋は上陸専用だったらしく、使用後はまた萩藩が撤去してました。
その唐人橋から御茶屋までは、一行に土を踏ませないよう、筵 ( むしろ ) が敷かれていたそうです。
えらい細かく描かれていますが、通信使たちが来てから57年後に描かれたようで・・・
毛利家の旗を付けた沢山の船が、通信使の船を誘導してます。
ひとえに毛利家の旗といっても、赤や青が ( 朱や藍? ) ありますね~。
対馬御座船もいます。
民家の間のゆるい上り道を通り、突き当たりを左側に行くと石垣がありました。
周りの石垣の石より中央の石垣の方が小さい!
当時は間口が5mもある階段があったそうです。
現在は埋められている・・・ということは単純に大きい石の石垣の方が古いんですよね。
小さい石をどけたら、当時の階段がそのままの形状で残っているということでしょうか。
この表面を磨いていない、粗々しい感じがイイ!
木の杭を打った?この跡もツボ!
近くの看板には長谷川十衛門さんが描かれた『 上関御茶屋仕構図』図も記載されていました。
赤丸は階段があった石垣の辺りで、別の階段を上がると青丸の辺りにお墓が。
このタイプのお墓はかなり古いタイプのものですが、どなたのかはわかりませんでした。
現在はガランとしていて、ちょっと淋しい感じ・・・
しかも鍵が掛かっていて、中には入れませんでした。
・・・初めて訪れた時には!
じつは今回 ( まだ桜の蕾が固い頃でしたが )2回目です。
この高台から見える右寄りの白っぽい建物の中に上関町役場 教育委員会があり、事前に電話連絡で開けて欲しいとお願いしときました。
へへへ・・・お邪魔します。
壁は新しい感じ
しかし柱は古く、所々に傷がありました。
おお~!
良い感じ!
修復した跡が。
室内には25分の1サイズの朝鮮通信使船 ( 騎船 ) の復元模型や、いろんな複製図が壁に掛けられていました。
『 朝鮮通信使船上関来航図 』も、こちらに飾られていました。
実物の多くは岩国市の徴古館にもあるようです。
そういう企画展があれば観てみたいな~♪
偶然 ( ? ) 明日は『 朝鮮通信使 上関到来まつり 』があるそうです。
雨予報ですが、ひどくなりませんように。
あ、私は明日、車が無いので何もせず家でゴロゴロする予定です。
アイタタタ
( ということで明後日の朝ご飯までの食糧を買い出しに行きましょ ← 私が御馳走役 ☆ )