山口の神社仏閣 ★ 防府市護国神社 編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



昨日、久しぶりに400ml献血しに行ったRieruです ★

・・・残念なことに、比重が足りませんでした。
今週、耳鼻咽喉科で診察してもらい花粉症の症状を抑える薬を服用する予定なので当分献血出来ません!


イテテ


( 睡眠薬、鎮痛剤が入ってなければ良い?献血時にご確認ください ☆ )


前回記事で気になった『 八紘一宇 』・・・桑山に防府市護国神社があることで納得しました。

護国神社の入口にある、明治17年建立の鳥居をくぐります。



な、なんか広いぞ!

いや下松の護国神社が狭かったのか・・・境内地は『 桑山招魂場 』と呼ばれています。

{ 慶応元 ( 1865 ) 年5月 御盾隊 ( みたてたい ) 士などが調練の場として開拓に着手し、9月に完成しました。
明治3( 1870 ) 年9月に元 整武隊士などが相議り、ここに招魂社を創建しました。}



赤い印が八紘一宇の石碑があった場所。



護国神社は青で囲った場所。

近くには大楽寺が。

楫取素彦さんは多くの志士が眠る近くに・・・なるほどです。


(もちろん)画像には無いですが、“ 土下座参拝 ” をされている翁が!



なんとなく参ったのですが←罰当たりな!身が引き締まる思いがしました。


両脇には奉納戦利品の弾があります。

{ 明治維新殉国の烈士や日清戦争~太平洋戦争にて殉じられた戦没者の忠魂義魄を合祀し奉られています。}


本殿裏手 ( 真裏ではないですが ) には軍人墓と呼ばれる仏石に『 贈正四位御堀耕助尊万之墓 』と刻まれているお墓がありました。



御堀耕助さんって・・・


{ 長州藩士 大田要蔵の長男 市之進として萩に生まれ18歳の時に江戸に出て神道無念流の斎藤弥九郎道場で剣術を修行しました。
塾頭を務めるほどの腕前だったそうです。
4年後、命令により帰国し、世子 毛利定広の小姓役に抜擢され、ついで京都に上がり尊王攘夷活動に奔走します。
天誅組の変の挙兵に失敗し、大阪の長州藩邸に逃れた中山忠光を助け下関まで警護しました。
途中、防府市富海の大和屋政助の船蔵の三階に匿いました。
元治元 ( 1864 ) 年7月には浪士隊の参謀として禁門の変に参戦して名を轟かせました。
8月の四カ国連合艦隊との戦闘に従軍したあと、山田顕義や品川弥二郎ら ( 共に松下村塾の門下生 ) うと御盾隊を結成して総督となり、幕府に恭順しようとする俗論派と戦います。
また今の山口市大内御堀に住んでいたことから『 御堀耕助 』と名乗りました。
慶応2 ( 1866 ) の第二次長州征伐では芸州口で隊戦、戦功を挙げます。
 26歳の若さで長州藩の参政となり、京都において薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らと討幕について話し合うなど、維新の大業に尽力しています。
明治2 ( 1869 ) 年 藩命令により山縣有朋と共に欧州視察に向かいますが、渡航中 肺を患い帰国、病状は回復せず明治4 ( 1871 ) 年 三田尻で亡くなりました。
享年31歳。}

・・・

そんな方がいらしたんですね。




本殿を正面にして左側にはまたもや鳥居があり、石碑が並びます。



左手にある看板には『 長州藩海軍関係墓碑 』とあり、四カ国連合艦隊の報復による長州藩海軍関係の戦 ( 傷 ) 死の方々を祀っておられます。


{ 奥に建つ9基は左から
・井原嘉平次
・小山惣右衛門
・助重助三郎
・横山市中
・斎藤亀蔵
・堀寅蔵
・山本弥八
と、お名前が記されていました。}



なんか手前の2基だけ目立っています・・・



お名前を拝見すると右側の碑には『 山田亦助 ( 萩 野山獄刑死 贈正四位) 』とあり、看板には・・・

{ 村田清風の甥。
山田顕義の叔父にあたる。
弘化2 ( 1845 ) 年以来長州藩の海防の実務において中心的な役割を果たす。
享年55歳。}

・・・・・・


左側の碑には『 松島剛蔵 ( 藩 野山獄刑死 贈正四位 ) 』

{ 楫取素彦の実兄。
高杉晋作、久坂玄瑞らと共に御盾隊を結成した。
藩海軍の初代管轄者で長州藩の洋式海軍創設に中心的な役割を果たす。
享年40歳。}


そうか。

素彦さんの実兄さんがこちらに・・・いづれも “お墓” は萩の東光寺にあります。


近くにあった『 遊撃軍墓碑 』。



{ 遊撃軍 ( 遊撃隊 ) は文久3 ( 1863 ) 年10月周防国宮市 ( 現 防府市宮市 ) の町人や農民、土佐藩を脱藩した池内茂太などの浪士らと組織して結成された諸隊の一つです。
来島又兵衛が初代総督となり、元治元 ( 1864 ) 年の禁門の変には主力部隊として参戦しました。
12月には高杉晋作の功山寺挙兵に呼応し、俗論派との戦い ( 内訌戦 ) に参戦しました。
慶応元 ( 1865 ) 年 には正規軍として認められ、四境戦争と戊辰戦争を戦い抜きました。

墓碑は9基あり、右から
・玉之石卯兵衛 ( 禁門の変・戦死 )
・田村勇人 ( 内訌戦・戦死 )
・萩原忠一郎 ( 内訌戦・戦死 )
・松井喜代茂 ( 狙撃隊・禁門の変・戦死 )
・那須唯一 ( 禁門の変・贈従五位 )
・所郁太郎 ( 遊撃軍軍監・病死・贈従四位)
・今枝恭茂 ( 病死・丹波園部藩士 )
・桑原義之助 ( 病死・土佐藩士・贈従五位)
・国弘忠吾 ( 内訌戦中・病死 )
と、お名前が案内板に記されていました。}



そのまた近くにあった『 千城隊等墓碑 』。



{ 慶応元 ( 1865 ) 年1月 高杉晋作の功山寺挙兵に呼応し、萩において藩論統一を希望する藩士だけで結成しました。
総督は福原駒之進、頭取はのちの前原一誠です。
戊辰戦争で奇兵隊と共に官軍の主力部隊となり、北陸方面で戦いました。

墓碑は5基あり、右から
・野村基三 ( 第二次長州征伐・戦傷死 )
・木屋彦三郎 ( 戊辰戦争・戦傷死 )
・沓屋兵衛 ( 戊辰戦争・戦傷死 )
・柳恭茂 ( 酬恩隊・第二次長州征伐・戦傷死 )
・熊野基三 ( 第二次長州征伐・戦傷死 )・・・打ち間違えではないですよ。 }

と、案内板には・・・あれ?熊野さんのお名前が重複?墓石を拝見すると『 都誠之墓 』と刻まれています。

・・・・・・?

同姓同名?


イテテ


m(_ _)m




反対側の高い場所にある鳥居もくぐり、更にたくさんの墓碑を参りました。



画像では見えにくいですが、鳥居の右側には『 招魂場 』と刻まれています。



・・・今までの墓碑より大きい。『 田中正七郎 』とお名前が。そのお名前の右側には “ 明治十年 ” と?



案内板を確認すると『 整武隊 』に所属されていたようです。

{ 御盾隊と鴻城隊 ( 井上馨が総督 ) が合併して編成され、三田尻出征後、海路尾道へ京都から東北、函館へと転戦します。
総督は山田市之允 ( いちのじょう・・・山田顕義 ) でした。
墓碑は禁門の変、内訌戦、第二次長州征伐、戊辰戦争などの時に亡くなった方のものです。}

こちらにある墓碑は先程の田中さんを入れて68基!

1枚の画像にあとの67基を入れようとしたらこんなに小さく・・・



{ 前列の34基を左から
・中村靖太  ・高田判蔵  ・村上与一  ・林鹿蔵  ・金子伝吉  ・河村栄蔵  ・石川新次郎  ・村井只作  ・上田滝之進  ・入江隼人  ・佐伯鉄之進  ・河村梅吉  ・品川喜一  ・佐波新六郎  ・桂勝五郎  ・乃木初太郎  ・河口作兵衛  ・泰文之進  ・田村民輔  ・多田熊槌  ・今田喜十  ・藤原五郎  ・飯田孫七  ・粟屋市之進  ・長沢保  ・徳西寿熊  ・戸田小八郎  ・渡辺与八郎  ・李家内蔵介 ・国守誠之助  ・柴田文七  ・大庭政之助  ・十川東之助

後列の33基は
・長松登人  ・吉野吉蔵  ・松原啓介  ・池田甲熊  ・児嶋佐一郎  ・奥島権七  ・佐久間重助  ・溝辺若熊  ・竹本五郎  ・井出八十八  ・桂蔵助  ・石田源七  ・古谷嘉兵衛  ・岸辺繁太郎  ・嘉来信吉  ・中川豊蔵  ・津村精作  ・秋月良人  ・森政寅輔  ・岸梅之進  ・田村源太郎  ・山本裕次郎  ・山本善太  ・大橋四郎  ・矢田部永三郎  ・伊藤元三郎 ・落合軍一  ・吉松弥一郎  ・岸辺禄郎  ・吉武作五郎  ・岡本順治  入江二郎吉  ・玉木彦助・・・}

最後にあった玉木彦助さんって

文ちゃん ( 楫取美和子 ) の2歳年上の従兄弟さんですよね!

{ 玉木文之進の長男。
15歳で元服した時、松陰先生から「 士規七則 ( しきしちそく ) 」を贈られる。
文久3 ( 1863 ) 年 世子 定広 ( のちの元徳 ) の近侍となります。
元治元 ( 1864 ) 年 命により長崎に行き、7月 世子に従い上京中 禁門の変を聞いて帰国し、10月に近侍を辞して11月に御盾隊に入りました。
慶応元 ( 1865 ) 年1月、内戦の際に俗論党に抗し、同月16日に長門国美禰郡絵党で藩政府軍と戦って負傷しました。
21日、吉敷郡小郡の海善寺で死亡し、同寺に葬られました。
享年25歳。
・・・その後、玉木家には長府藩士で乃木希典の弟 直人が入り、正誼と改名して杉梅太郎 ( 民治 ) の長女 豊子と結婚しました。
しかし正誼も萩の乱に加わり、明治9 ( 1876 ) 年 10月、24歳で戦死しました。}




『 桑山招魂場碑 』。

山田顕義が自ら銘を作ったそうです。
案内板には・・・

「 血を流し、骨をさらして勤王に身を捧げた。王政復古し、ここに忠良が祀られる。桑山高くそびえ、海広く、天長し。」

明治25 ( 1892 ) 年に建立される前、慶応3 ( 1867 ) 年に望東尼さんと桑山に登り、志士のお墓を詣でています。



当時 市之允 ( この頃はまだこの名? ) は24歳。望東尼さんは61歳。晋作さんとのつながりもあってか2人は親密で市之允の武運を祈って歌を送り、御守りまで捧げています。
その後、望東尼さんは亡くなられますが市之允は・・・ああ面倒くさい長くなるのでまたの機会に。

最後に参ったのが『 御盾隊等墓碑 』です。
なんか・・・やっとたどり着いた感が・・・



{ 隊士は230人いて、屯所は三田尻に置かれました。
墓碑は14基あり、奥にある左側から
・神代周治 ( 戊辰戦争中・病死 )
・徳久蘇八 ( 病死・正七位 )
・飯田孫八 ( 戊辰戦争・戦死 )
・木村清助 ( 病死 )
・木村清助 ( 病死 )
・吉武多作 ( 病死 )
・梅田正三 ( 第二次長州征伐中・病死 )
・神代周治 ( 戊辰戦争中・病死 )
・吉武五郎 ( 戊辰戦争中・病死 )
・吉村盛之助 ( 戊辰戦争・戦傷死 )
・水田善作 ( 病死 )
・柴田文七 ( 戊辰戦争中・病死 )
・石崎左々馬 ( 佐賀の乱・戦死 )
・渡辺与八郎 ( 戊辰戦争・戦死・贈正五位)
・・・打ち間違えではないですよ。お名前は重複していてもOKなようです。}



・・・

外れた場所に御堀さんの墓碑が。



ご立派なお墓が本殿近くにあるから特に案内板はありませんでした。

お隣の “ 吉田 ” さんと ( もうひとつは折れてる・・・) 静かに建っています。



もちろんこちらには祀られていない数多く ( 双方の )亡くなられた無名の方たちにも心の中で手を合わせました。



こんなにたくさんの墓碑を目の当たりにして私に一体何が出来るだろうかと考える良いきっかけになり・・・


まず比重の件、クリアしましょう!


アイタタタ


( 献血の前日、一日中狭庭仕事したのが影響したようです 汗1←言い訳か!)