ここ最近、破天荒さんのことが気になるRieruです★
柳井市まで会いに行きました。
『清狂(せいきょう)』と呼ばれた僧…月性(げっしょう)アニキに!
△ 実際に被っておられた網代笠
『 清狂 』という名前は自ら付けたものではなく、他の僧が名付けたそうです。この笠の字はその方が書いたのかな?
『 清狂 』の文字のまわりにはいろんな方の寄せ書きがありました。
江戸末期に諸国を行脚…この網代笠と鉄杖を使用していたそうです。
文化14年(1817年)柳井市にある遠崎(とおざき)の妙円寺に生まれ、詩人として、また海防僧として業績を残しました。
天保2年(1831年)から4年余り、福岡県豊前市の恒遠 醒窓(つねとう せいそう)の元で詩文を学び、優れた詩人としての基礎を作りました。
その作詩は千篇を越します。
嘉永元年(1848年)には『清狂草堂(せいきょうそうどう)』を開塾しわ遠近より入塾を希望する若者が集まり、明治維新に活躍する多くの人物を輩出したそうです。
月性は尊王攘夷・海防の急を説き、その主張に共鳴した人物も多く、講説は防長二州の全域にわたりました。
…なるほど!
妙円寺に『 月性展示館 』があり、見学させてもらうことに。入場料は200円で、高校生以下は無料でした。
さぁ、境内へ。
清狂草堂 ( 時習塾 ) 屋根にシートが掛けてありました。茅葺きの屋根ですが、傷んでいるので掛けているそうです。
萩 ( 西 ) には『 松下村塾 』、柳井 ( 東 ) には『 清狂草堂 』!
塾生には、『世良 修蔵』『大州 鉄然』『赤祢武人』などがいます。
・・・全然分からん!←勉強してください。
こんな雰囲気の中で学ばれたのですね。
この建物は元々は50mくらい離れた場所に建っていたそうです。
死後、月性さんを偲んで今の場所に建てられたのだとか。
6畳と4畳のお部屋です。
『 松下村塾 』では月性アニキにわざわざ来てもらって講義をしてもらっていたそうです。
吉田松陰先生より13歳年上のアニキは、松陰先生からリスペクトされていたのだとか。
なので、ファーストコンタクトは松陰先生からアニキに送られた手紙でした。
展示館にその時の手紙 ( 写し?) があります。
あの松陰先生にリスペクトされるって、すごい僧侶さんなんですね!
あの松陰先生にリスペクトされるって、すごい僧侶さんなんですね!
元々、松陰先生の兄の『 梅太郎 』さんと友人関係だったご縁があったそうです。
そんなアニキの有名な『 詩碑 』がありました。
男児 志 を立てて郷関を出
ドクダミ〜 △
そんなアニキの有名な『 詩碑 』がありました。
△ 剪定中でしたので変な構図
『男児立志の詩碑』
学もし成るなくんばまた還らず
骨を埋むるなんぞ期せん墳墓の地
人間到る処青山あり
たぶん…
「 志を持って故郷を離れるんじゃけぇ、
本懐を遂げるまで悪りぃけど帰らんけぇの!
どこへ行っても青々とした墓地があるんじゃけぇ、そこに埋めてもらえりゃぁ、ええけぇのぉ★」
みたいな?
じつはこの詩には前半がありました。
二十七年雲水の身
また師友を尋ねて三津に向かう
児烏反哺まさに日なかるべし
別るるに忍びんや北堂垂白の親(しん)
…えっと?
「 27歳になったんじゃけど、まだまだ修行の身じゃけぇ、大阪に先生や友達を訪ねるけぇ!
勉強の為じゃぁ言うても、白髪交じりの母さんに仕えることもせんで、あちこち行っちょった自分を思うと不孝の罪を感じちょるわい!」
イテテ
( く~だ~け~す~ぎ〜=3 )
白髪が目立つようになった母に対する月性アニキの申し訳ない気持ちが述べられているようです。
・
ここ、妙円寺の門は約300年前から建っておられるそうです。
( 駐車場から撮影 )
門をくぐると妙円寺が。
屋根の上を見ると
?
もしかして屋根の上で、狛犬さんが逆立ちしてる?
ええ?まさか…そんなふざけた
!
「 あらよっと!」
Σ(゚◇゚;)…狛犬さんの鵄尾(しび)、初めて見ました!
『 魔 』も、「 わしを笑い殺す気か!」な~んて言って退散しそうですね。
あっ、門には毛利家の家紋が☆
よく見たら『 一 』じゃなくて『 二 』になっています!
なんでも『 そのまんま毛利家の家紋 』を使うのは恐れ多いとのことで、
「 もう一本引いちゃえ★ 」
ってもう一本付け加えたそうです…
アイタタタ
(奥ゆかしいけど、面白い!)