9月30日土曜日付毎日新聞の朝刊で、「同性愛キャラ復活 フジに抗議」という記事を読みました。
とんねるずの石橋貴明さんが保毛尾田保毛男という「ホモ」に扮するもので、それに対してフジテレビにはLGBTの団体・個人から104件の抗議があったそうです。
数十年前、これが放送された時のことは具体的に覚えています。
テレビを見て無責任に笑ったかもしれない。や、きっとそうでしょう。
この記事を見て最初に思ったのは、情けないことに
「あ、ホモっていう言葉、久しぶりに聞いたなあ」というものでした。
今は、男性の同性愛者にたいして、私たちはたいてい「ゲイ」といいますよね。
気になって辞書を調べて見ました。*今回使ったのは三省堂です。
ホモ→ホモセクシャルの略。
ホモセクシャル→(男性間の)同性愛。ホモ。
とありました。
英和辞書でhomosexual を引くと
→同性愛の、同性性欲倒錯症
とありました。*ちなみにCROWNです。
「症」とつくからには、一種の病ということになりますね。
どうしてもホモという言葉には差別的もしくは侮蔑的なニュアンスが含まれます。
今回、歯切れに悪いブログになってしまうと思いますが、書きます。
物語なり映像なり歌詞なり、もしくはコントなりを作る時、
何かのキャラクターを作るわけで、それは限定をする作業でもあります。
そこには世の中から見て美点もあれば汚点もあるでしょう。
限定するということは、イコール他を排除することでもある。
ひっくるめてのキャラクターです。
しかし、その中の何かが、誰かを傷つける、あざ笑う目的であってはならない。
当然です。
私は、曲がりなりにも「作る」仕事をしているので、それは気をつけなくてはならないと思っています。
かつてコラムなんかで勢い余って書いたものに抗議を受けた経験は何度かあります。
今だったら「炎上」ってやつになっていたでしょう。
そんなことも経験して、たとえ目的でなくても、不用意に傷つけたりあざ笑ったりすることになってはいけないのだと強く学びました。
しかし、本当に傷ついている&あざ笑われている人ではなく、
その尻馬に乗っかって作る側を攻撃してくる人たちに対しては弱腰になりたくないという気持ちもあります。
批判が怖くて何かを作れるのか。
しょっちゅう自分に問いかけています。
無責任な批判(とも呼べない難癖)には絶対に負けたくない。
保毛尾田保毛男の件で思い出したことがあります。
自分の著作に『産む、産まない、産めない』という短編集があります。
おかげさまで多くの方に手に取っていただいている作品です。
その中に『レット・イット・ビー』という、ダウン症の女の子が出てくるものがあります。
私の姪がダウン症でそのことをきっかけに書きました。
小説を出版する際には、編集者や校閲者(ドラマで一躍メジャーになりましたね)など、
いくつものチェックを受けます。
この作品については、何重にもチェックが入りました。
担当者以外の編集者や校閲以外の部署など、いろいろな部署に原稿が回ったのです。
私は、自分の見たまま、感じたままを詳しく描写していたのですが、
いろいろな部分で削除や書き直しを提案されました。
編集者には自分の身内にいるからといって好きに書いていいわけではないといわれ、
自分なりに譲歩して書き直したり削ったりしたのですが、
原稿を戻す度に赤が入り、苛立ってしまったこともあります。
担当者と、もうこの一本は短編集から落とす方向で話し合ったりもしました。
そんな中、原稿チェックをしている、ある関係者からの伝言を受け取りました。
私も面識のある、中年男性の方です。
「僕はハゲてますし、自分ではネタにしたこともありますが、他人からいわれるとやっぱり傷つきますよ」
その方はもしかしたら冗談半分だったのかもしれませんが、
私はハッとしました。
その一言で、版元側の赤字のほとんど(すべて、ではありませんが)を受け入れようと思ったのです。
人間が生きていく上で、食べるものと寝るところだけあればいいってものではない。
文化というと大げさだけれど、娯楽とかエンテーテインメントは人間を人間らしくするものだと思っています。
だからこそ、人間が正常でおだやかな暮らしを送れる権利を脅かすものであってはならない。
そんなことを考えました。
*写真はイメージカットです
今回、ハッシュタグはつけるの、やめようっと。