卒園式当日。



式が無事終わり

クラスごとに集まり

先生からこども達と保護者へ

最後の挨拶があった。



そのあと、張り切りママにより

寄せ書きとプレゼントが渡された。



先生は驚いた表情で受け取り

笑顔で深々お辞儀されていた。

(内心、どう思っていたのだろうと思う)



案の定、別のクラスでも

同じ事が起こっていた。

(なんでやねん)



その後は各々写真撮影だったり

談笑したりの時間があり



タイミング良く、

他の保護者がいない時に

先生と少しだけ2人で話すことができた。



「子どもが大変お世話になりました。

先生のクラスで良かったと、

心から思っています。

ありがとうございました」



先生は涙目になり

「。。。仕事頑張ってて

良かったって思います」

その言葉で、私も伝わった。



先生の涙にもらい泣きしてしまい

教室の隅で、2人で静かに泣きながら

思い出話をして

温かい時間を過ごした。



自分の言葉できちんと伝えれば

ちゃんと伝わるものだとつくづく感じた。



友達でも何でもない人達から

嫌われたって、どう思われたって

別にどうだっていい。



顔色を伺い空気を読んで

多数派の意見に賛同し

都合が悪くなったら他人のせいにするのは

楽かもしれない。



でも流されるということは

自分の気持ちは置き去りになる。



自分の気持ちが置き去りになると

自分がわからなくなる。

そしてそのうち

自分というものがなくなる。



園が毎年"ご遠慮下さい"と

お願いしているにも関わらず

一向に風習が変わらないのは

自分というものがなくなってしまった

ママ達が多いからではないか。

と思わざるを得ない。



少なくとも私が出会ってきたママ達は

そういう人が断然多かった。



元々自分の意見がないのかもしれない。

NOが言えないのかもしれない。

人の目を気にしているのかもしれない。

私にはわからない。



1つわかったのは

私はそういう風に生きられない。

ということだった。



私はきっと離婚を決意した時に

心のどこかで決めたのだと思う。

自分をなくさないって。



こんな空気の読めない、というか

空気を読むのをやめた私に

ママ友がいないのは当然だ。



しかし今のところ

ママ友がいないということで

メリットの方が多いと感じている。



特定のママ友を作らないことによって

マイペースに行動ができるし

無駄な時間を省く事ができている。

(上っ面の会話ほど退屈なものはないし)



子供同士が仲良いからといって

ママ同士仲良くしなければ

いけないわけでもない。

実際、子供は友達も沢山いて

毎日楽しそうに通学している。



本当に気の合う人とは

子供抜きにしても会いたい。

と思うだろうし

自然と仲良くなれたらそれはもう

ママ友ではなく友達になった。

という事なのだと思う。



もしもそういう友達ができたら

そういうご縁こそ大事にしたい。



だからやっぱり私は

ママ友というカテゴリーが苦手。



ママ友という言葉自体、

誰かが作った造語であって

私にはきっとこれからも

必要がない、縁のない言葉だ。