■■第4章:ナチ残党の地下組織「オデッサ」


ナチ残党は、戦後ほどなく、戦争犯罪人に指名された親衛隊の本隊員の逃亡を援ける地下組織を作った。暗号名で「オデッサ」とか「蜘蛛」とよばれる秘密組織である。

その他にも、「帝国」「地下救助」「岩の門」などが次々に誕生した。いずれも、世界中にナチスの入植地を設け、またSSの推定20万人におよぶ外国メンバーをも部分的に使って末端組織作りを目指すものだった。スイス国内だけでも2万戸の隠れ家があった、と伝えられている。


●SS戦犯容疑者の相互援助組織ともいうべき、これらグループの全貌は、謎に包まれている。連合軍がその存在に気づいたのは、かなり後のことで、組織の正体を暴くことはできなかった。

しかしこれらの逃亡補助機関は、作家フレデリック・フォーサイスが『オデッサ・ファイル』の中で描いたような得体の知れない巨大組織ではなかったようだ。実際は、地下組織と呼べるほどの力はなく、ごく小規模の逃亡補助機関だったとの見方もある。


●これらの組織の中でも最大のグループは「オデッサ」である。オデッサ(ODESSA)とは「親衛隊の組織」の略称であり、設立されたのは1947年のことで、戦時中ではない。

独自のナチ戦犯追及機関を持つユダヤ人サイモン・ヴィーゼンタールも、この「オデッサ」の全貌を暴くことはできなかった。しかし、「オデッサ」がドイツからの逃亡者をスイスやオーストリアに引き入れ、必要とあればイタリアに逃がしていること、そしてスペインや南米とのつながりを持っていること、までは発見できた。

 


「オデッサ」の謎を追及していた
サイモン・ヴィーゼンタール

 

●サイモン・ヴィーゼンタールは語る。

「『オデッサ』は、十分に能率的ネットワークとして組織されている。40マイルごとに中継拠点が設けられ、そこには、近くの2つの中継拠点しか知らない、3人から5人ほどの人間が駐在している。彼らは、逃亡者を受け取る中継拠点と、次に引き渡す中継拠点しか知らないわけである。中継拠点は、オーストリア-ドイツ間の国境全体、特に上部オーストリアのオスターミーティング、ザルツブルク地方のツェル・アム・ゼー、チロルのインスブルックにほど近いイグルスなどに設けられている。オーストリアとスイスのどちらにも近いリンダウ市に、『オデッサ』は貿易商社を設立しており、カイロとダマスカスに支店を設けている。」

「しばらく後に、私は次のことを発見した。それは、『オデッサ』が、オーストリア-イタリア間の、いわゆる修道院ルートを開発していたことである。ローマ教会の僧、とりわけフランシスコ派の修道僧たちは、逃亡者が、僧院の長い“安全な”ルートを渡って逃げるのを助けている。疑いなく、カトリックの僧たちは、キリスト教の哀れみの感情に駆られている。」

「『オデッサ』は、国境地帯で暗躍するあらゆる密輸業者と結託している。また、ヨーロッパ各国の首都にあるエジプト、スペイン、シリアの大使館、それに南米のいくつかの大使館と密接なつながりを持っている。さらに、スペインのファランヘ党の“社会救済”組織のドイツ課とも、彼らは連携している。この組織は、“旅行者”をスペインに運んだり、南米に送り込んだりしている。別の“旅行者”はジェノヴァに連れて来られ、南米行きの船に乗せられたりもしている。」


●「オデッサ」の謎を追及するサイモン・ヴィーゼンタールは、のちに「オデッサ」の責任者はシリア政府発行のパスポートを所持するハダド・セイドと名乗る男で、この男の正体は、親衛隊のフランツ・ロステロであることを突き止めている。

 

 


 

■■第5章:カトリック教会の援助機関と「蜘蛛(ディー・シュピネ)」


●ナチ残党による地下組織は、オーストリアとイタリア北部に点在するフランシスコ派の修道院と連携していた。この修道院組織の、ナチ戦犯に対する援助活動は、アロイス・フーダル司教によって、積極的に承認されていたのである。


●このアロイス・フーダル司教は、1885年生まれのドイツ人で、ナチ体制の協力者として、つとに名高い存在だった。戦争が終わると、フーダル司教は、バチカン教皇庁を動かし、カトリックの教会組織を、ナチ逃亡者の隠れ家に提供している。フーダル司教の援助活動は、ナチ逃亡者ばかりではなかった。侵攻してきたソ連軍に抵抗し、スターリンの仮借なき弾圧にあえぐクロアチア地方の民族主義者たちにも、フーダル司教は支援をさしのべていたのである。

ナチの逃亡者やクロアチアの逃亡者たちは、カトリックの教会組織を頼って、イタリアへ落ちのびた。バチカン教皇庁は、その彼らに偽名の難民パスポートを発行するなどして、海外(主に南米)への脱出を支援したのだった。

※ ナチスとバチカンの関係について詳しく知りたい方は、別ファイル「ナチスとバチカン ~教皇ピウス12世の沈黙~」をご覧下さい。

 

 
アロイス・フーダル司教

ナチの逃亡者やクロアチアの
逃亡者たちを積極的に支援した

 

●1947年5月のアメリカ国務省の機密情報報告によれば、ナチ残党とその協力者がバチカン教皇庁の活動から除外されていないことが示唆されている。

「教皇庁は、出国者の非合法な動きに関与する唯一最大の機関である。この非合法な通行に教会が関与したことを正当化するには、布教活動と称するだけでよい。カトリック信徒であることを示しさえすれば、国籍や政治的信条に関わりなく、いかなる人間でも助けるというのが教皇庁の希望なのだ。」

「カトリック教会が力を持っている南米諸国については、教皇庁がそれら諸国の公館に圧力をかけた結果、元ナチであれ、ファッショ的な政治団体に属していた者であれ、反共産主義者であれば喜んで入国を受け入れるようになった。実際問題として、現時点の教皇庁は、ローマ駐在の南米諸国の領事と領事館の業務を行なっている。」



●ところで、「オデッサ」と肩を並べる、もうひとつの代表的な地下組織に「蜘蛛(ディー・シュピネ)」と呼ばれる組織がある。この組織は、1948年に、グラーゼンバッハ連合軍捕虜収容所を脱走した親衛隊員によって設立された。


アドルフ・アイヒマンは、1946年1月5日にワイデンの連合軍捕虜収容所を脱走して、親類や知人の間を転々としながら、逃亡の地下生活を続けていたが、「蜘蛛」のメンバーであったアイヒマンの部下アントン・ブルガーに連絡をつけて、ナチ残党の「蜘蛛」や、新ナチ党の秘密組織「7つの星」の支援を受けるようになった。

その後、「蜘蛛」のアントン・ブルガーは、アイヒマンを海外へ逃亡させるために、フーダル司教の援助機関に連絡。アイヒマンはローマの修道院からジェノヴァの修道院へ移り、彼は、ボルガノ生まれのリカルド・クレメントという名前(偽名)の身分証明書と、アルゼンチンヘの亡命パスポートを与えられた。以後、アイヒマンは、その名前で、10年間を暮らすことになる。3週間後、ジェノバの港に、アルゼンチン行きの客船「ジョバンナ号」が入港した。リカルド・クレメントことアドルフ・アイヒマンは、このジョバンナ号に乗り、ゆうゆうとヨーロッパを後にしたのである。

 

 
アドルフ・アイヒマン(SS中佐)

 

●なお、ユダヤ人1万5000人を安楽死させた医師ゲルハルト・ボーネも、1949年にバチカンの教会組織の援助でアルゼンチンに逃亡した。しかし、彼は1963年8月にドイツへ舞い戻り、西ドイツ警察に逮捕されそうになると、再びアルゼンチンに逃亡し、次いでブラジルに移り、1964年に逮捕された。

 


カトリック教会の総本山バチカン市国

 

●イギリス『ガーディアン』紙のアルゼンチン通信員であるウキ・ゴーニは、ナチ残党とカトリック教会組織の関係について次のように述べている。

「のちに教皇パウロ6世となったジョバニ・バッティスタ・モンティーニ他多くの枢機卿が、その影響力を行使してナチ残党の逃亡支援に道を開き、ときには病的なまでの反共姿勢によって、少なくともそれを道徳的に正当化した。 〈中略〉 フーダルやシリのような司教・大司教が最終的に必要な事柄を進めた。ドラゴノヴィッチ、ハイネマン、デメーテルといった神父が、パスポートの申請に署名した。

こうしたことが明白に証明されているからには、教皇ピウス12世が完全に知っていたかどうかなどという問題は、とるにたらないものであるばかりか、馬鹿馬鹿しいほど無邪気である。」

 

 
(左)ナチス・ドイツの旗 (右)バチカン市国の旗

 

●ナチ戦争犯罪を追及するジャーナリスト、クリストファー・シンプソンは、ナチ残党とカトリック教会組織の関係について次のように述べている。

カトリック教会が何故、どのような経緯でナチの密航に関わるようになったかを解明できれば、大戦後に元ナチとアメリカ情報機関との同盟関係が一気に進展したわけを理解するカギとなる。中でも詳しく調べてみるべき組織は、かの有名なカトリック信徒の組織『インターマリウム』である。1940年代から1950年代初めにかけてはこの組織の全盛期で、幹部たちは、ナチ逃亡者を東欧から西側の安全な場所に密航させる活動に深く関わっていた。後に『インターマリウム』は、CIAの亡命者組織に人員を補給するきわめて重要な役割を果たすことになる。

これがかなり確かな話だというのは、『インターマリウム』の幹部20人が、自由ヨーロッパ放送(RFE)や解放放送(RL)、『被占領ヨーロッパ民族会議』(ACEN)といった組織で、活動家や幹部の座についているからだ。CIAがこれらの組織に資金を援助し支配下に置いていたことは、アメリカ政府も認めている。 〈中略〉

『インターマリウム』の指導者は、ナチ逃走活動の調整役となっていった。そして、バチカン教皇庁の難民救済活動に携わった者の多くは、同時に『インターマリウム』の幹部でもあったのである。

たとえば、『ウスタシャ』(クロアチアのファシスト組織)の逃亡者のために逃走ルートを確保したクルノスラフ・ドラゴノヴィッチ神父は、自称『インターマリウム』幹部会のクロアチア首席代表であった。情報公開法(FOIA)を通じて入手したアメリカ陸軍の調査記録によれば、ウクライナのイヴァン・ブチコ大司教は、教皇ピウス12世自身とともに介入し、ウクライナ人の武装親衛隊(SS)部隊の自由を勝ち取り、『インターマリウム』のウクライナ代表となっている。公然と親ナチを掲げていたラトビアのファシスト組織『ペルコンシュクルスツ』(雷十字)の元総統グスタフ・セルミンスは、『インターマリウム』ローマ支部の役員に任命されている。」

 


ホロコーストを黙認したとして
非難されている教皇ピウス12世

「ヒトラーの教皇」とまで言われている

 

●更に、クリストファー・シンプソンは、アメリカ情報機関と「インターマリウム」のメンバーが連携しあっていた事実も指摘する。

1945年のバチカン教皇庁による難民密航ネットワークに始まり、『インターマリウム』を経て、CIAの資金援助を受けた1950年代初めの政略戦計画に至るまで、両者の人脈的なつながりは続いたのである。 〈中略〉

アメリカが、『インターマリウム』の大規模なナチ逃走組織と抜き差しならない関係になったのは、『アメリカ陸軍情報部隊(CIC)』がドラゴノヴィッチ神父を雇ったことがきっかけであった。ドラゴノヴィッチ神父は『インターマリウム』のクロアチア人幹部で、当時、アメリカが支援しつつも公式な接触をするにはきわめて『危険な』情報資産をヨーロッパから脱出させる、特別なラットライン(逃走と脱出のルート)を動かしていた。クロアチアのカトリック教会の高位聖職者であったドラゴノヴィッチ神父は、唯一最大のナチ逃走活動を行なっていたのである。」

「後のアメリカ司法省の報告によれば、ドラゴノヴィッチ神父自身も戦争犯罪人だった。アメリカ司法省は、ドラゴノヴィッチ神父がアメリカの支援する逃亡者の密航に関わり、その結果、ドラゴノヴィッチ神父の独立したナチ逃走活動に対して、事実上──好むと好まざるとにかかわらず──アメリカが資金と保護を与えていた、ということを認めている。」



●また、大戦中にナチスによる迫害を逃れてイスラエルで育ったユダヤ人作家のマイケル・バー=ゾウハーは、著書『復讐者たち ─ ナチ戦犯を追うユダヤ人たちの戦後』の中でユダヤ人によるナチ狩りを克明に記録しているが、ナチ残党とバチカンについて次のように述べている。

 

 
(左)ユダヤ人作家マイケル・バー=ゾウハー
(右)彼の著書『復讐者たち』

 

1948年から1953年にかけて、ドイツにはかなりの数の地下組織が存在していた。シュピネ、オデッサ、シュティレ・ヒルフェ、ルーデル・クラブ、ブルーダーシャフト、HIAGなどで、そのすべてが多少なりとも秘密組織の形態をとり、裁きの日の到来はいつかと恐れおののいている者たちに大々的な支援を与える体制を整えていた。

産業資本家をはじめ、銀行家、元陸軍将校、そして何も詳しいことは知らない一般大衆も、これらの組織に必要な資金調達に巻きこまれた。偽名を使ってドイツ国内に潜伏中の何千というナチ戦犯は、ついに援助と庇護をもとめて行く場所ができたことを知ったのである。

裁判にかけられる者がでると、地下組織は最高の弁護士による弁護を依頼し、裁判官たちに圧力をかけ、ときには、不都合な証人を消すことさえあった。そして、裁判結果が被告にとって不利なものとなった場合は、国外逃亡の準備を整えたのである。」

「バイエルンおよびイタリアの赤十字の職員の一部はナチの不法越境に手を貸したが、それ以上に驚くべき事実は、“カリタス”などの宗教団体に所属する者や、フランシスコ会やイエズス会などがナチ逃亡を支援したことである。ナチスは抜けめなく僧侶たちの慈愛の精神に訴え、教皇ピウス12世が選出されて以来勢力を拡張したバチカンの“ドイツ派閥”とナチ党の間には常に最良の関係が保たれていた。この“ドイツ派閥”の指導者の一人が大司教アロイス・フーダルだった。 〈中略〉

1947年から1953年の間、“バチカン救援ライン”もしくは“修道院ルート”が、ドイツから海外の逃亡場所へ脱出するルートの中で、最も安全、かつ、最もよく組織されたルートだった。」

 

 


 

■■第6章:国際秘密組織「SS同志会」とオットー・スコルツェニー


ナチ戦犯のクラウス・バルビーとフリードリッヒ・シュベンドは、「アメリカ陸軍情報部隊(CIC)」に有給で雇われている間、仲間のために南米に逃れる道を設けた。クラウス・バルビーはボリビア、フリードリッヒ・シュベンドはペルー、ウォルター・ラウフはチリ、アルフォンス・サッスンはエクアドル、オットー・スコルツェニーとハンス・ウルリッヒ・ルーデル、そしてハインリッヒ・ミューラーはアルゼンチンに逃れ、一方、ヨーゼフ・メンゲレはパラグアイに逃れた。

 


南米の諸都市とナチスの要人

 

「オデッサ」や「蜘蛛」を利用した戦犯逃亡者は、間もなく、相互の団結によって、身の安全をはかることになる。この組織が、旧親衛隊員の「SS同志会」という国際組織である。「ナチ・インターナショナル(国際ナチ党)」や「カメラーデンヴェルク」と呼ばれることもある。これこそ、戦後に外国組織を建設するというボルマンの構想を具現したものであると言えよう。


●この「SS同志会」についてサイモン・ヴィーゼンタールは語る。

「戦後ほどなく、親衛隊の残党たちによる“戦友組織”が、南米にあることを私は知った。その設立者の1人は、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐である。彼らは南米のどの国でも、警察、政府、あるいはドイツをはじめ、オーストリア、イタリアなどの大使館と巧妙に結びついている。旧親衛隊の組織にとって、危険の情報が、常に、大使館筋から入ってくることを知っているからである。」

 


サイモン・ヴィーゼンタール

 

●『戦争の余波』の著者であるラディスラス・ファラゴも次のように述べている。

「『オデッサ』が俗に考えられているような機能と規模を持った組織が実は『SS同志会』だった。それはルーデル大佐がドイツ企業や金融界からかき集めた資金によって支えられていた。」

 

 
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐

 

●このルーデル大佐とは、戦時中はドイツ空軍のエース中のエースパイロットとして2530回のミッション、519台の戦車を破壊、800台以上の装甲車・トラックを破壊、150門以上の火砲を破壊、9機の敵機を撃墜し、1941年にはソ連戦艦「マラート」を撃沈する勲功をたて、1945年にドイツ軍人最高の勲章「黄金柏葉剣ダイヤモンド騎士鉄十字章」を授与された男である。戦争を通じて、この勲章を授与されたのは、ルーデル大佐のみである。

ルーデル大佐は純粋な職業軍人であったので、どの国からも戦犯に問われているわけではなかったが、熱烈なヒトラー崇拝者であり、ナチ運動復興の意気に燃えていた。ルーデル大佐は第二次世界大戦後、「ジーメンス社」の販売代理店を、イタリアのローマに設立した。スペインのマドリードに、「マンネスマン製鋼社」の販売代理店を設立した。(「ジーメンス社」も「マンネスマン製鋼社」も、いわゆる「ヒトラー基金」に協賛していた基幹産業である)。

ルーデル大佐は、「ジーメンス社」の製品を売り込むために世界中を飛び回り、旅の先々で亡命ナチ残党に遭遇した。そして彼は、旅先で遭遇した各国のナチ残党に連絡をつけるとともに、団結を呼びかけた。こうして「SS同志会」が組織されたのである。


戦後、ネオナチ運動の国際的なスポークスマンとなったルーデル大佐は、「SS同志会」を組織するにあたって、カトリック教会の組織が中心的な役割を果たしたことを高く評価していた。

彼は次のように述べている。

「カトリック教会をどう見ようが、あなたがたの自由である。しかし大戦直後の数年間にわたって、教会が、特に内部の特定の高位聖職者が、わがドイツのエリートたちを救うために、しばしば死から救うためにしてくれたことを、我々は決して忘れない。逃走ルートの中継点となっていたローマでは、きわめて多くの手配がなされた。教会は、そのありあまる力を使って、我々が海外に出るのを助けてくれたのである。復讐と懲罰を求める血に飢えた勝者の野望は、かくして静かに、しかも秘密裏に、打ち砕かれたのである。」



●「SS同志会」のメンバーは、戦後、事業家として働いていた者が多かった。

組織の設立者といわれるルーデル大佐は、「ジーメンス社」の電機製品を南米に販売する仕事に携わっていた。オットー・スコルツェニーは、「マンネスマン製鋼社」の販売代理店を経営していた。贋造紙幣の専門家だったクリューガーは、アメリカの「ITT」の子会社の重役を務めていた。アイヒマンの部下だったエーリッヒ・ラジャコヴィッチは、ラジャという偽名で銀行をそっくり買収し、イタリアの銀行家になりすましていた。トレブリンカ収容所長だったフランツ・シュタングルは、南米に移る前に、逃亡先のシリアで、すでに事業家として成功していた。

このように、「SS同志会」は、同時にまた国際的な事業家クラブでもあったのである。


●ナチ残党の事業家たちは、互いに業務提携しており、取り引きのみならず、借款などの契約を結んだりしていた。あるいは、ドイツ系企業と南米各国政府との交渉に、仲介役を務めたりしていた。イギリス人ジャーナリストの、ウィリアム・スチーブンソンは、南米におけるナチ関係者の事業活動を要約して、次のように述べている。

「借款団は『SS同志会』のための金融取引を含んでいる。その支店網は、ラテン・アメリカ諸国のすべての首都に設けられており、信頼できる幹部によって、ペルーの首都リマから指揮されている。フランスから戦犯として死刑を宣告されているクラウス・バルビー、ヒトラーのボディーガードだったスコルツェニーの旧部下の、ハバナ人のアドルク・フントハムマー、製鉄所の持ち主オスカー・オプリスト、ボルマンの従僕ヘルンツ・アシュバッハーなどが幹事役となっている。また、借款団は、補助金のようなものを運用している。」



●「SS同志会」は本部をスペインのマドリードに置き、オットー・スコルツェニーが運営した。

このオットー・スコルツェニーは、「スカーフェイス」というあだ名を持つ人物である。大戦中、ヒトラーのお気に入りのSS隊員として活動し、ムッソリーニ救出で一躍有名になった。また翌年、連合国との講和を画策したハンガリーの独裁者ホルティ将軍を封じるため、その息子を、ブタペストの市内から、しかも白昼に誘拐する離れ業を演じた。彼は、その機略と大胆さをもって“ヨーロッパでもっとも危険な男”の異名をとったのである。

 

 
大戦中、ヒトラーのお気に入りの
SS隊員として活動したオットー・スコルツェニー。
“ヨーロッパでもっとも危険な男”の異名をもつ。

 

「SS同志会」は、次第に、世界中に張り巡らされた武器、テロリスト、麻薬密輸網の形成に重要な役割を果たすようになった。またオットー・スコルツェニーは、南米でナチス勢力の基地を作ったが、これが南米で数々の独裁政権を育むこととなった。こうして組織された「SS同志会」は、スコルツェニーによれば、実に22ヶ国にまたがり、会員数は10万名に及んだという。


このスコルツェニーの手腕、その非凡な組織力を狙って、いろいろな人物が彼に接近してきた。例えば、スコルツェニーはスペインの独裁者フランコ将軍に依頼されて、スペイン情報部に訓練を施し、またスペイン陸軍大学で軍事論を講義している。1953年になると、CIA長官のアレン・ダレスに懇望されて、エジプト保安警察の設立を担当している。

 

 
(左)スペインの独裁者フランコ将軍
(右)CIA長官アレン・ダレス

 

●また、“狐”の異名をとるラインハルト・ゲーレンもスコルツェニーに接近してきた。ゲーレンは第二次世界大戦中に対ソ諜報活動の責任者であったが、スコルツェニーとは、大戦末期にソ連軍の背後を衝くゲリラ作戦で協力し合った仲であった。

ゲーレンがソ連軍捕虜による「ロシア解放軍」を編成すれば、一方、スコルツェニーのほうは、スターリン体制に反対するウクライナの民族主義者や、ポーランドの抵抗運動を支援する仕事に携わるというふうだった。ゲーレンの情報部隊とスコルツェニーの破壊工作隊は、敗戦の直前に、隊員を交換するほどの親密ぶりであった。

戦後、ゲーレンは、アレン・ダレスCIA長官と協力して、対ソ情報活動を行なう「ゲーレン機関」を作りあげていたが、スコルツェニーの協力を得ることで、再び地下組織網との連絡と復活に成功する。こうして「ゲーレン機関」は、信頼できる協力的な人物を各国で獲得し、多数の元ナチスを包含していったのである。これらの人物は「Vマン」と呼ばれ、「SS同志会」のメンバーの多くはまた、「ゲーレン機関」の「Vマン」でもあった。

 


ラインハルト・ゲーレン

戦後、CIAと協力して「ゲーレン機関」を組織した。
メンバーの中には逃亡中のナチ戦犯も含まれていた。

 

●スコルツェニーは、「ゲーレン機関」の要請を受けてエジプト治安部隊の訓練計画にも参加したことがある。訓練のために100人のドイツ人からなる軍事顧問団が送り込まれたが、その中には元SSや元ナチ党員がかなり含まれていた。また、団長は、かつてのロンメル将軍の参謀から武装SSの司令官に抜擢されたヴィルヘルム・ファルンバッハーであった。

エジプトのガメル・アブデル・ナセルは、スコルツェニーと元SSの協力によってエジプト権力の座についた。初期のパレスチナ・テロ・グループもスコルツェニーの訓練を受けた。また、エジプトの宣伝省には、ゲッベルスの部下だったフォン・レールス博士のスタッフが、反ユダヤキャンペーンの手腕を買われて雇われていた。

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