すっかり暖かくなって、私の地元の桜も満開になりました。
コロナ禍で開催中止になっていた地元の桜まつりは今年も開催されたようで、先日、夜子ちゃんと一緒に夜桜見物をしに行きました。
社会人になっても、毎週のように夜子ちゃんと会っていたので、会わない日が長くなると、いつかこうして疎遠になっていくのかな……と思いました。私は必要な連絡以外、特に頻繁に連絡をすることもないので。
でも、彼女はいつ会っても、この前の続きのように普通に接してくれるので、私は少しホッとするのと同時に、
私は色々なことを考えてよそよそしくなっちゃうから、彼女がなんでそんなに普通にできるのかが疑問な部分もあります。
自分が思ってることが、必ずしも相手と同じとは限らないと頭では分かっているけれど、
私はよそよそしくなっちゃうのが普通だから、
それ以外の考えをできなくて、相手も同じこと思ってるに違いないと思い込みにのめり込んでいるのかなぁと思います。
違いを感じるたびに、「え、それ知らない」って心が恐怖を感じるから、攻撃したくなったり、過剰に自分を否定する。
そうやって、自分の心を守ってた。
平日の夜なのに、土手にはたくさん人がいました。
河川敷に並ぶ屋台とライトアップされて光る桜。夜の祭りの景色が川に反射して、川の反対側から見ると千と千尋の神隠しのような不思議な世界がそこにありました。
橋を渡って向かう私たちは、本当に千尋になった気分でした。笑
昼の桜も、もちろん素敵だけど、
夜桜もまた違った魅力で惹き込まれます。
お酒を飲めるようになってから、
桜を見ながら、お酒を飲むことをやりたかったので、この機会に実行しました✌️
お酒のツマミを調達して、桜の花が覆う階段に並んで花見をしました。
花を見ていたのは最初だけで、私たちは食べるのとお喋りに夢中でしたが……笑
まさに花より団子。
団子よりお喋り。
それでも、誰かと過ごす花見は楽しかった。
河原に来てから思っていましたが、
やっぱり恋人同士で来ている人が多いなあと思いました。
綺麗な景色を大切な人と見たいって気持ちは、分からなくもないけど、少しぼんやりした感覚。
彼らは景色が目的じゃなくて、ただデートしたかっただけかもしれない。
お祭りを楽しみに来たかっただけかもしれない。
花見を会う口実にしてたかもしれない。
それでも、どんな目的であっても、
「あの人と一緒に行きたい、会いたい」という想いは同じな気がします。
私は恋愛に対して、とてもネガティブというか、
みんなが普通に抱くような感覚がないのか、拗らせてるのか、ひねくれてるのか……
私にとって、とてもデリケートな問題なのです。
執着してると言ってもいいくらいに、敏感。
だから、カップルが目に入りやすいのかもしれません。
友達と過ごすのは、もちろん楽しい。
でも、少し気疲れしてしまうから、
ひとりで過ごしたいとも思う。
団子もお喋りもいいけど、のんびりと桜の下を歩いたり、ぼーっとしたり、飽きるまで眺めていたり、
綺麗だなあ……と、桜に思いを馳せたり、めいいっぱい感じたい。
そういうことは、誰かと一緒じゃできない。
できなくはないけど、相手が静かな時間を楽しめるか、退屈に感じないか……と、結局私が気を遣うから、やっぱりひとりがいいのかなぁ。
ひとりでも、私は充分楽しめる。
でも、ふたりで笑い合っている恋人たちを見ると、
自分は寂しい人なのかと思ってしまいます。
ひとりでも楽しいけど、誰かとならもっと楽しい。
どちらが良い悪いとかじゃなくて、どちらも楽しいし、どちらも素敵。
「どちらでもいいことは、より素敵な方がいいに決まってる」
こんな決めつけと思い込みが苦しい。
何かそんなに悲しいのか、どうしてこんなに寂しいと感じるのか。
「恋人がいないことは寂しいこと」
ずっとそう思っていたけれど、
恋人の有無じゃなくて、
好きな人と綺麗な景色を見てどんな気持ちになるのか。
私には、それが分からないことが寂しい。
友達も家族も大切な人なのは違いないけど、
きっと、恋人とか好きな人を表した「大切な人」は、特別だと思うから。
知らないことに恐れを感じる。
知らないことに寂しさを感じる。
想像でしか分からないことを、想像の中だけで勝手に決めつけて、思い込んで苦しくなっているだけ。
知らないことを知るのは、
必ずしも良いことばかりじゃないかもしれない。
やっぱり嫌だったと感じるかもしれない。
それでも、想像だけで完結したくない。
少し話は変わり。
私は小説やブログ、手紙などの文章を書くことや
絵を描くのが好きです。
以前、
叔母に私が小説書いたりしてるんだ、と話すと
そのことをとても褒めてくれました。
私に感化されたと言ってくれて、
叔母も自分の好きなことを発信するようになりました。
私は小説も絵描きも好きだけど、
上手じゃないです。
世界にはもっともっと凄い人たちで溢れているのに、そんなに上手じゃない私が小説も絵も好きだというのが恥ずかしかった。
自信がないから、他の人の評価や分かりやすい数字で自分の価値をはかってしまう。
叔母も同じことで悩むことがあったと言っていましたが、
「発信することが目的じゃなくて、
私(叔母)はやりたいことをするための手段としてやっている。
発信は通過点で、私は最終的にやりたいことがあるし、
表現って楽しいよねっことを共有できたらいいなって思う」
そう話してくれました。
叔母自身も他人の目を気にすると言っていたけど、やっぱり、考え方が大人だなぁとしみじみ思いました。
新鮮な考えでしたが、
その時はそういうものか……と、上手く飲み込んことが出来ませんでした。
でも、
私はどうして小説を書きたいんだろう?
どうして絵を描きたいんだろう?
どうして恋愛に敏感で執着するんだろう?
表現することも、物事を考えるのも、
私は自分自身のことを知りたいから。
ふと、そう思いました。
私がどう思うかより、相手のことばかり気にしてきたから。
小説を書く。
絵を描く。
恋愛をするのが目的じゃなくて、
小説も絵描きも恋愛も、
私が自分を知るための手段かもしれない。
その時、叔母の言ってたことが分かったような気がしました。
知識としてあることを、自分が見て、感じて、体験する過程で、ストンと心に落ちる瞬間があるのです。それを「理解した」と言うのではないかなって思いました。
ぼんやりとしていた気持ちを言葉にできると、
自分が気にしていたことが楽になった気分。
「私って、本当はこれがしたかったんだ」って、
自分の気持ちを見つけることができた。
やっと気付いてくれた!!って心が喜んで、
涙が出そうになる。
自分のために、もっとこの感性を使ってもいい。
誰かに分かってもらおうとするまえに、
自分自身と和解したいきたい。