先日『もののけ姫』を改めて
観てみました

初めて観賞したのは
約30年近く前のことでした

今回 改めて観ることを通して
捉えたことなどを記してみたいと
思います

虐げられ 追いやられてしまった
神の存在

出雲の神々を
連想させます


島根の石見の方にある
たたら製鉄

その跡地を訪れたことが
ありましたが

もののけ姫の中に
出てくる製鉄技術や環境は
まさに そのあたりが モデル
でもありましょう


シシ神の おわす
神聖なる原初からの森

シシ神はそこに息づく
生命あるものすべてを統べる

その生と死を司る

その森は振動波が高く
アシタカの受けた
呪いともいえる痛みが
いくらか和らぐのは
その振動波ゆえであろうかと…


たたら場を興したエボシ御前は
身を売られた女性たちを
雇用することで
女性たちの尊厳を守り
誇りを培っている

また 昔は業病といわれて
忌み嫌われがちであった
ハンセン氏病に罹患した人々も
雇用し 石火矢製作の技術を
習得させて生きる道を拓いた

エボシ御前は
雇用主として
事業家として
被雇用者からすれば
公平で魅力ある人物である

けれども自然に生きる
野生の動物たちからすれば
自然を切り開き
事業を展開する人間達は
許し難い存在である

山に遺棄され
山犬モロに育てられた少女サン

サンは人間達を憎んでいた

アシタカはシシ神の実在を知り
コダマ(精霊たち)が多くいる
森の神聖さ 霊威を実感し
侵してはならない領域であることを
悟る

一方でたたら場で生活をたてる
人々の暮らし
 重労働のなかにも
生き生きとした交流や
笑いや豊かさがあること
その価値をも認めていた

アシタカはある意味
ニュートラルなのですね

人間の世界も
原初の自然も
ともに生かす道はないのか?

しかしエボシ御前は
でーたらぼっち化した
シシ神を倒してしまう

シシ神が倒れたことで
神聖なる森の全てが
枯死してしまう

シシ神殺しを元々画策していた
ジコ坊たちは
シシ神の頭部を運んでいこうとする

シシ神は
胴体を拡大して頭部を探し
ジコ坊たちを追い詰める

アシタカは頭部を
奪った人間側からきちんと
返す必要を説く

シシ神に頭部を返却すると
枯死してしまった森には
少しずつ緑が芽生え
花も咲いていく…

森を再形成するには
どれほどの時間が
かかるのだろう?

けれどもシシ神殺しの
代償として腕を失ったエボシ御前も
一からやりなおしをすることを述べる

その時 自然との共存を
模索していく可能性が
あるだろうか

エボシ御前という人の賢さ

どこかナウシカのクシャナを
連想させるものがある
(映画ではクシャナの良さが十分
あらわされていないが 原作では
優れた統治者となる)

アシタカは北のエミシの一族の出身

エミシ

蝦夷

アイヌ民族のような服装

そして一族の一人が言うように
大和によって追われてきた背景…

縄文の人々の流れと感じます


また動物として闘う存在に
イノシシたちがいます

乙事主 おっことぬし

というのは

事代主 であるかと!

また葛城山の大きなイノシシ
の姿の一言主と事代主は
同一神と捉える見方がある

出雲の大国主命は
猪目洞窟に幽閉されて
絶命したという見方もある

作品の乙事主が
祟り神になりかかるほど
怨恨の念を募らせていたこと

なにか古代出雲の神々が
虐げられ 貶められた歴史と
重なるように思われます


今 この時期に
もののけ姫を観たことから 
思うのは

怨恨などのマイナスのエネルギーを
神々の分霊たる私達一人一人が
浄化し

クリアな状態でニュートラルに
生きる時なのではないか

闘い (たとえ正義感がベースでも…)ではなく
共存 調和の意識で
生きること

自らを大切に生かすことは
自らを愛と調和のエネルギーで満たすこと

それは水面にできる波紋のごとく
広く伝播していくのだと思われます

アシタカが呪いから
解放されたのは
シシ神が彼を生かしたから

アシタカの眼差しのなかに 
私達の指針となるものが
宿っていると感じました



先日 頂きました 星乃珈琲さんのオムライスです♡ ⤵