これは、先週書いたまま

途中になっていた記事です。




いまだに

毎朝


身体が

愁訴して


蕁麻疹が

終わりませんのよ。









昨日も

お昼休みに







実家へと

行きますと








希死念慮で項垂れた母と

ひえーひえー腰痛で言ってる父









最近

ずっと雨で

母は

外にも出ていないから



昨日久しぶりに

雨が止んだので


すこし

オシャレをして

素敵なお帽子をして

軽くメイクもして










車椅子で

近所をまわったんですね。











みかんが成り出したり

謎の木の実を

ふたりで見上げて










なんだこりゃ、なんだ??










と

話したりね。











これまで

私のまわりで

色んな死がありました。

恐らく

普通より

少し多く

そして

悲しい死が

多い気がしています。











だから

小さな頃から

人の最期

というものは

考えさせられてきたし

どのみち

ひとつも

遺された側が

納得できるような

さよならは

無かったかな。











ただ

私の持つそういった経験のなかで

独自の死生観というのは

育まれて行って


「生きるとは何か

死とは何か」


それは

大きなテーマを持って

私を導いてくれていたと

思っています。










余命いくばくも無い母

(↑このままじゃ)

ですが

父もこれからどうなるか

という所ですが










その死生観を経て

今改めて

 ‘生きて会える事’ に

もっと 光を当てるべきだなと

思うように

なっています。










こんな私の人生でしたから

生 にはいつも

死 が付き纏い


使い方間違えてるかもですが



さよならだけが人生だ



という言葉を胸に

生きているような感覚が

ありました。

その言葉を胸に

というか

防御に

と 言った方が

良いかも知れません。




それは

今日会えても

明日居なくなってしまう

そんな別れが

何度もあったからかも

しれません。







それに

仕事柄

生命自体は死んでも魂が遺るので

そちらの世界の事ばかりに

詳しく

神経をそちらに

添わせて生きてきた事もあり







現実そのものの

価値や

大切なことを

飛び越えて

自分の世界を持っていたので






いま

親の介護のなか

とても

幸せを感じられる様に

なっています。

蕁麻疹でながら笑







なにをしてあげても

有難うのひとつも

言わない母ですが

腹も立ちません。







互いに

同じ時を

自分が育てて貰った実家で

過ごしていることに

幸せを感じるから

そこに

言葉とか想いとかは

それぞれに

あっても

なくても

どちらでも構わない

という所です。








それで

これは

健康な私の

娘としての私の

エゴだとは思うのですが






母の

最後の住処が

物置部屋のようになっていては

心苦しいので

いま

母の部屋を

片付けて

プチ・リノベーション中です。








今の家族の目標は

家族みんなで年を超えて

新年会をやろう!




というところです。





できるといいな。

と

思う今日このごろ。

だからこそ

一日一日を

大切に

過ごせている有り難さ。

これを噛み締めながら

過ごしております。







ではまた〜