私の中で限界突破を迎えた後もなんだかんだと連絡が着て
それに対して淡々と応対する流れがしばらく続いた
その中で、私の文章の表現の仕方が変化していった
最初は絵文字や顔文字が消えた
それでも普通に連絡がくるのにイラッとして口語文だったのを敬語文で送るようになった
そんな状況でも母上からのラインに青筋が浮かぶことがしばしばあった
子ども達の写真を送ってほしいと送られてきたのを目にした時は
思わず大きなため息を吐き、叫びそうになるのを必死に抑えた
末っ子長女の誕生日に何かメッセージが送られてくるかと身構えたけどそれはなく
代わりに長男の好きな新聞のパズル欄の切り抜きのことを聞かれた時はモヤッとした
2が付いていない弔いブログでも記載したけど
私の誕生日の前日にバースデーメッセージが届いたりもした
その点を指摘したら「これは本当に申し訳ない、今日が当日だと思っていた」と送り返されたけど
そこに関してはそんなにショックはなかった
何故なら、これが2回目だから
「私の誕生日、祝日だから間違え辛いと思うんだけど」と思いつつ
自分達(両親)の第一子(私)の名前を「家族会議」で適当に決めるような人達なら仕方ない
そう諦めることで精神的な衝撃を和らげた
そんな日々がしばらく続いたある日、母方の叔母から出産祝いが届いたから受け取ってほしいという連絡が届いた
現金書留で送ってもらうのもいかがなものかということで
拒絶宣言後、初めて私の実家へ足を運ぶことになった
当日は受け取ったらさっさとお暇するつもりで夫のコマツさんを車に残し子ども達と共に中へ
久しぶりに会った祖父母と孫という本来なら微笑ましい場面を前にしても
心が融解することはなく、むしろとっとと切り上げるタイミングを見計らった
「お茶も飲んでいかないの?」と聞いてくる彼らを車で夫を待たせているのを口実に
我が子達へ出発できるよう準備を急かす
その時になって私の顔を見た2人は驚きの表情を見せた
それはそうだ、それまで見せたことがない感情をありありと現した顔をしていただろうから
私はこの日、妹's(いもず)がその場にいなかったことを心底良かったと思った
元凶がその場にいたら、とてもじゃないけどそれで済ますことはできなかっただろうから
その日を境に、今のところ実家からラインが届いてはいない
穏やかな日々を過ごせているのと同時に虚しい思いが去来している今日この頃
(幼い頃の私は、こんな未来が来るなんて夢にも思っていなかったなぁ)
子育ての狭間でぼんやりと過去を辿る
1番古い記憶の中で浮かぶ、在りし日の病室内での親不孝な場面が頭を過る