暦(こよみ)とは何か?

 

辞書でみると

時の流れを年・月・週・日の単位で区切り、

わかりやすくした体系。カレンダーとも。

 

暦(れき)でみたら

暦法・暦年・太陽暦・太陰暦・グレゴリオ暦に

新暦・旧暦・西暦・陰暦・陽暦・還暦 

 

暦法によって構築された暦表。

その方法論を暦という。

 

日の出が1日の始まりとするヴェーダ暦

1秒の長さも日々変わっていく。

 

いまも世界には暦は無数にある。

 

 

ひとつの国に1つと思ったら大間違い。

暦は民族でも異なり

中国では王政が変わるごとに改暦していた。

 

中国暦、ユダヤ暦、ヒンズー暦 は太陰太陽暦

エジプト イラン は太陽暦だが

イスラムではいまも閏月のない

「太陰暦」を使っている。

だから9月が冬だったりとか。。


人が時間に区切りを作った。

 

十二支の支は「区分する」

の意味だそうです。

 

何を重んじるのか。

 

十二支に、

十二獣や 木火金水を配当したのは

(なぜか土の配当記載はないそうです)

前403年 -221年 戦国代

後漢王充「論衡」が初とされている。

 

その後の

前104年 

漢代武帝の「太初暦」(前漢代鄧平)

中国で初めて六十干支を採用した暦

以後1700年にわたり

王朝の交代で改暦しました。

 

我々日本人が

現在使っているのは

グレゴリオ暦と呼ばれる「太陽暦」

 

(リンク)

日本では1873年明治6年に

太政官布告第337号「改暦ノ布告」を布告

太陰太陽暦(旧暦)から

太陽暦(新暦)に改暦されました。

 

 

 

日本の暦って

いつからあるのだろう?

 

 

かの「魏志倭人伝」の注釈には

「其の俗。正歳四時を知らず。

但、春耕秋収を記して年紀となす。」

 

とあり

三世紀ごろまでは 正歳四時(暦)を知らず。

中国の暦は

まだ伝来していなかったと記録にあります。

 

 

日本にいつ暦が伝来したのか?

調べるとほぼ、日本書記。

日本書記には諸説あることがわかる。

この、ことわりが前提です。

 

 

時系列に見ていきましょう!!

 

 

553年 欽明天皇十四六月条 

百済に暦博士を、

医師、易博士交代の勅がだされていた。

日本書記に初めて「暦」の文字の初見。

 

554年 欽明天皇十五二月条

百済から暦博士、固徳王保孫らが

翌年、来日した。

 

602年 推古天皇十年十月 

百済僧の観勒(かんろく)が来日。

暦法、天文、地理、遁甲、方術を

伝授したとされる。

暦法を陽胡玉陳、

天文遁甲を大友村主高聡が学ぶ。

 

604年 推古天皇十二年 

暦を採用(始用暦日)「政事要略」 

甲子年※と定められた。

 

607年 遣隋使を派遣

 

663年 白村江戦

白村江戦のあと百済滅ぶ。(天智天皇) 

百済人が大勢、倭国に亡命し

太乙(一)式など伝来された。

 

672年 壬申の乱 

大海人皇子(天武天皇)が

天文の智識と式占を用いて

近江方の軍勢を破り即位。

 

675年 天武天皇四年 正月丙午朔条 

陰陽寮が初見する。

同年正月庚戌 占星台が設置された。

 

684年 天武天皇十三年二月庚辰条 

陰陽師が初見される。

 

687年持統天皇元年正月 

頒暦諸司 を配った             

持統天皇三年の具中暦木簡が

出土し保管された。奈良石神遺跡

 

690年 持統天皇四年 

十一月甲申十一日条(12月17日)

勅を奉りて始めて

元嘉暦」と「儀鳳暦」を行ふ。

 

日本ではじめて

中国伝来の暦が施行される。

 

月朔に元嘉暦(平朔:平均値) 

食予報に儀鳳暦(定朔:実測)

を使ったとされる。

 

694年 藤原京遷都(持統天皇) 

~704年藤原京が京に完成。

 

以後、平城京(710年)

恭仁京、難波京、長岡京、平安京と

遷都の際には相地(風水)の仕事で

陰陽師が派遣された。

 

696年 持統天皇十年 

正倉院に儀鳳暦(麟徳暦)が

最古の暦として

木簡が出土し保管された。

 

697年 文武天皇元年八月朔

続日本紀への切り替わりで

日本書記は乙丑(元嘉暦) 

続日本紀は甲子(儀鳳暦)

二つの干支が記載される。

 

712年 元明天皇 

古事記編纂(上中下巻)

「先代旧辞」が上巻に多く

「帝皇日紀」中下巻に多い。

 

720年 元正天皇 

日本書記編纂(30巻系図1巻)

日本書記には、紀年暦日が有する。

日本書記独特で、

天皇即位年を太歳の干支で記したとある。

 

どういうことだろう?

 

日本書記の紀年暦日

例えば

神武天皇即位は

太歳辛酉「春正月庚辰朔」とある。

暦法は太陰太陽暦だった。

日本書記には900もの

月朔(1日ついたち)が

記載されていたという。

 

 

紀年の世界

日本書記の紀年がどのように構成されたかを

明らかにする試みを「紀年論」という。

日本書記の1巻2巻には紀年はない。

 

神武天皇の東征開始に

紀年が初めて記載された。

 

「太歳甲寅」年の「冬十月丁巳朔辛酉」

とあり、十月朔日(1日)が「丁巳」

であることから辛酉は5日となる。

 

神武天皇の東征開始は

甲寅年(前667年)の

10月5日だったとわかる。

 

そして

602年 推古天皇十年 

百済僧観勒によって暦法が輸入され

 

604年 推古天皇十二年 

日本で初めて暦を採用したとある。

 

※甲子年と定めた根拠はというと

讖記(予言)と緯書(經書の神秘解釈)の思想、

讖緯説(新代8-23年に発達)によるものとか。

 

甲子革命、改元の発想。

絶対視されていた天命が革(改)まる意で

辛酉革命も改元の発想。

干支なので60年で起こる讖緯の予言。

 

現代の通説としては

明治の歴史学者、那珂通世によると

 

601年 推古天皇九年辛酉 を起点として

 

1260年(21元(1蔀(ぼう)✕60年(干支))

 

つまり、601年から1260年遡った

前660年辛酉 を神武天皇の即位とした。

 

1872年明治五年 

神武天皇即位を日本書紀に基づき

二月十一日を紀元節と定めた。

後に建国記念日。

 

紀年は長暦に通じていく。

 

内田正男氏の日本書記暦日原典(長暦) 

『日本暦日原典』発刊から3年後の1978年、内田正男により雄山閣から刊行。本書では神武東征(B.C667年)から持統天皇11年、文武天皇元年(697年)までの日本書紀に現れる暦日を取り扱っている。日本書紀の暦日は安康天皇の時代から元嘉暦、それ以前は儀鳳暦による推算であるとする小川清彦の説に従って、各々の暦法による推算を行い、前書同様、誤植防止のために計算機の出力結果をそのまま写真版として収載している。

 

巻末には、発表当時ガリ版刷りでしか

配付されなかったという小川清彦の論文

『日本書紀の暦日に就て』が掲載され、

同氏の業績を顕彰している。

なお本書における推算では

西暦はすべてグレゴリオ暦(先発グレゴリオ暦)

で計算されている。(Wikipediaより引用)

 

小川晴彦の説 とは

昭和初期の東京天文台天文学者の小川晴彦著

「日本書記の暦日について」には、

日本書記の暦法は神武天皇から儀鳳暦(麟徳暦)

五世紀(欽明31年)以降は元嘉暦が使用されていた。その暦日は当時のものではなく!

後世(8世紀)の偽作であることを 

明らかにされたとするもの。

 

国立天文台をみたところ 

5世紀前半では両者の違いは小さく、

元嘉暦で推算した干支でも矛盾は生じないため、

切り替えのタイミングについてははっきりとしていない。としている。

『日本書紀暦日原典』同書掲載の

小川清彦著「日本書紀の暦日について」

内田正男『暦と時の事典』雄山閣出版

を参考とされていました。

 

 

甲子や辛酉の呪縛びっくり

干支は暦の側面に、陰陽五行が繋がり

讖緯説に影響を受けている。

 

紀年の世界。。深すぎる

 

私が素朴な疑問を思ったのは

「長暦」という深い世界にw

 

歴史学者の暦法の見解深いなあ 

今の浅はかな見識では

さすがに沼ってきたので

今回はここまで。

 

 

 

戻ります。

 

 

764年 天平宝字八年 

日食予報に対応した

大衍暦(中国暦)が施行された。吉備真備

 

858年 天安二年 

五紀暦(中国暦)へ改暦され施行された。

大衍暦には予報になかった

月食が起こったため対応した暦。

 

五紀暦は、施行かなり前

780年に遣唐使が持ち帰るも

学び手が不在していたため放置。

856年 斉衡三年 

暦博士大春日朝臣真野麻呂が進言。

施行された。

 

862年 貞観四年 宣明暦が施行。

日食にも対応し、唐で最も長く使われた暦。

大衍暦、五紀暦と比較して優位性があることを

暦博士大春日朝臣真野麻呂が改暦を進言。

施行された。

 

宣明暦は長い。

唐でも71年間だったが

9世紀以降、遣唐使を廃止していたこと。

冊封制度の中国との交流がなく

貿易はあったもの

暦法の授与はなかったなどから

日本では宣明暦が823年間に渡り

使用されていくことになる。

 

足利義満が明と接触されたとき

最も優秀とされる元の授時暦を継ぐ暦、

大統暦を授与されたが改暦に至らなかった。

 

 ここから陰陽師

 

941年 天慶四年 

加茂保憲が造暦宣旨を蒙る。

 

957年 中国国立天文台で正式に修学した

日延が「新修符天暦經」を日本に持ち帰る。

 

958年 天徳二年 

符天暦が七曜暦の計算法で採用。

密教占星術の宿曜道成立へ。 

保憲の暦道支配が進む。

 

960年 天徳四年 

保憲、陰陽頭から暦博士に。

その後従四位下の位へ。

当時、安部清明は天文得業生で上司だった。

保憲は三公五帝祭(霊剣神霊降)の助手に

清明を登用し、その後、晴明は陰陽師に。

 

977年 保憲没。

清明が天文博士に。

暦道は息子光栄に。

 

地方の各地で

地域の需要に応える「地方暦」が流通した。

伊豆三嶋暦、伊勢丹生暦、宇治暦、会津暦など。

 

862年以降

ずっと改暦がなかったため

宣明暦法に基づき毎年、年暦を作成できた。

 

 そして、

1685年 貞亨二年 

渋川春海によって

初の日本産の暦「貞亨暦」に改暦された。

七曜暦復活。

 

国産の暦、貞亨暦の歴史は

読むととても灌漑深い。

また別の機会で語りたいw

 

映画にもなった

 

学生時、理系の私が

こんなに歴史と向き合ったのは

初めてかも。占い師となり

万年暦からの縁で

干支暦の世界を知りました。

 

暦は歴史を知れば興味深い。

 

干支の紀元が知りたくて

調べはじめて

何度と書き足して

ひと月くらい?

 

いちどかき上げた投稿が

誤ったワンクリックで!!!

消えてしまったり笑い泣き

失念しましたが、

陰陽師ゼロみて再起!

二度目でハマりました。

 

国立天文台のサイトは凄いです。

根拠の元文献が国立図書館の現物に

リンクされてて。どの本より強い。

 

干支は暦であり、占いではない。

しかし、

式占、占星、呪術のプロ集団

陰陽寮や陰陽師たちの

暦との関わりは深い。

 

暦学からみたら

讖緯説は神話や神秘の世界として

切られてる感ありますが

占術家からみたら

めちゃくちゃ興味深い。

 

天皇にとって食の予報外れは、

致命的なのも理解できた。

 

陰陽師の謂れは

暦を知って、さらに気になりました。

陰陽師が観ていた世界。

また時間見つけて書いてみたいです。

 

学びに感謝して。

 

 

 

 

 

 

 

参考

 国立天文台 暦wiki

「陰陽師とは何者か」

「天文方と陰陽道」

「暦と占い」

「陰陽師の日本史」

「神道と日本神話」

 

20040519更新