最近、自分の主たるテーマとして「危険運転致死傷罪」に取り組んでいます。報道を見ていて、「聞くに堪えない事例」に接する事が多い事から国会で取り上げています()。その中で幾つか首を傾げる事案が出ています。

 

 まず、「危険運転致死傷罪」という名称。これだと「危険な運転をして他人を死に至らしめた人に対する罰」と思うでしょう。しかし、違います。これは危険な運転をすべて罰する法律ではありません。危険な運転の内、悪質なものを犯罪化する法律だとされています。被害者や遺族と接していて強く感じるのが、この法律論と国民意識の乖離です。この乖離を埋めるべきだと、私は強く主張しています。

 

 そして、構成要件、責任についていずれも信じられないくらい厳しく取られています。法律の第二条で危険運転致死傷罪の類型が定められていますが、例えば、第二号に「その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為」とあります。構成要件として、例えば直線の道路である事、視界を遮るものがない事、自動車の性能が高い事といった事情は、「その進行を制御することが困難」でない方向に機能します(より犯罪が採用されない方向に働くという事)。リミッターが外れた、頑丈なドイツ車でぶっ飛ばす方が、日本車よりも危険運転致死傷罪が取られにくくなると言われると違和感しかありません。

 

 また、この犯罪は故意犯なので「その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる」事を基礎づける客観的な事実の認識が必要だとされています。常識的には「そんな認識を持って運転する奴が居るのか?」と思いたくなるはずです。

 

 結果として、大別して2つの問題があります。まず、「何故、この行為が危険運転致死傷罪になり、あの行為はならないのか」がよく分からないのです。一つ一つの判例ではなく、判例の積み上げを見ていくと、刑事法における「明確性の原則」を欠いているよなと思うのです。これは憲法裁判にすらなり得るものです。そして、危険運転致死傷罪が取られないと過失運転致死傷罪になるわけですが、何処からどう見ても悪意か重大な不注意の塊である運転者の暴走で親族が亡くなった方から、「何故あれが過失なのですか?」と言われた事は一度や二度ではありません。「危険な運転の内、悪質なものだけを犯罪化した」という説明を受け入れた上でも、「あれは悪質ではないのか?」と思っている方はたくさん居られます。

 

 私はこの法律は法秩序への信頼という観点から危険な要素を孕んでいると思います。常識的な国民意識と法律のあり方、解釈、運用があまりに掛け離れています。担当した方の胸先三寸での裁量が大き過ぎます。そして、危険運転致死傷罪を取らない検察実務、判決等が積み上がっていくと、この犯罪を採用するハードルが上がって来ています。「危険運転致死傷罪で起訴しても勝てないから」と、検察官から説得された遺族のお話は枚挙にいとまがありません。

 

 「法改正の検討だけでもいいからやってくれないか」と齋藤大臣に食い下がりましたが、あまり芳しい答弁ではありませんでした。ただ、この手の話はしつこく言い続ける事が必要です。しつこくやり続ける決意を持ちながら、これからも取り上げていきたいと思います。