香港国家安全法をめぐる状況から、日中間の刑事分野での協力関係を停止すべきだとの声があります。まず、物事を整理すると、日中間に犯罪人引渡条約はありません。一方、刑事共助条約があります。両国間で捜査協力するための二国間国際条約です。そして、この刑事共助条約の運用停止を主張する方がおられます。

 

 その気持ち自体はよく分かります。ただ、この条約には運用停止の規定がなく、機能を止めるとすると終了しかありません。ウィーン条約法条約には運用停止について書いてある条項がありますが、このようなケースで使えそうなものはありません。基本的に、運用停止には双方の合意が必要です。そして、条約の終了については、相手国にその意図を通告してから180日後に終了します。しかし、気を付けなくてはならないのは、条約を終了させる事は日本にも不利益がかなりあるという事です。日本国内で犯罪行為を行って、中国に逃げ込んでいる人物への捜査協力が滞るという事になります。日中刑事共助条約の運用停止や終了は全くお勧めいたしません。

 

 というか、そんな事をする必要は無いと思います。通常、刑事共助条約には共助の拒否事由が定められています。一般的に、この手の刑事共助条約の常識として、政治犯は対象としないとか、自国で罰せられない行為は対象としない(双罰性)とかが盛り込まれます。日中刑事共助条約もその例に従って、そういう共助は拒否「できる」となっています。

 

【日中刑事共助条約第三条】
1 被請求国の中央当局は、次のいずれかの場合には、共助を拒否することができる。
(1) 被請求国が、請求された共助が政治犯罪に関連すると認める場合
(2) 被請求国が、請求された共助の実施により自国の主権、安全、公共の秩序その他の重要な利益が害されるおそれがあると認める場合
(3) 被請求国が、共助の請求がこの条約に定める要件に適合していないと認める場合
(4) 被請求国が、共助の請求が何人かを人種、宗教、国籍、民族的出身、政治的意見若しくは性を理由に捜査し、訴追し若しくは刑罰を科する目的でなされていると、又はその者の地位がそれらの理由により害されると信ずるに足りる実質的な根拠があると認める場合
(5) 被請求国が、請求国における捜査、訴追その他の手続の対象となる行為が自国の法令によれば犯罪を構成しないと認める場合

(略)

【引用終了】

 

 では、これを下敷きにして、香港国家安全法との関係を見てみたいと思います。

 

 まず、香港国家安全法は、中国本土の国家安全法を下敷きにしたものです。ただし、香港国家安全法の特徴として、法律の域外適用が強烈だという事です。私は中国語が出来ませんけど、以下の文章が「香港の永住権を持たず、香港に住んでない人間」であっても、この法律の適用があるという事は大体分かります。中国本土の国家安全法にはこの域外適用の規定は無さそうですので(違っていたらすいません)、この点は香港国家安全法特有の事情として考慮する必要があります。

 

【香港国家安全法第三十八条】

不具有香港特别行政区永久性居民身份的人在香港特别行政区以外针对香港特别行政区实施本法规定的犯罪的、适用本法。

 

 したがって、日本国内で、日本人が「FREE HONG KONG」という旗を掲げて、駐日中国大使館前で示威活動をしていたら、法技術的には香港国家安全法違反である可能性が高いです。そういう規定を設けておいて、「将来、中国に入国しようとした時、香港国家安全法違反で拘束されるかもしれないぞ」という恐怖感を世界中に広く与えるのが目的でしょう。

 

 かつては、国内法の域外適用と言えばアメリカの十八番でした。適用の恣意性が高い事、罰則の決め方も結構恣意的である事等から、アメリカへの批判は強かったです。日本企業はかなり苦しめられました。一方、アメリカ司法の長い手で国際犯罪を捕捉した事もありますし、国際的な経済制裁として機能する事で抑止に繋がっている部分もあります。そして、香港国家安全法を見ていると、今後、中国が国内法の域外適用をやって来る萌芽がここにあるかもしれません。

 

 法律論的には、日本国内で「FREE HONG KONG」の活動をしている方に対して捜査共助要請が来る事も想定しなくてはなりません。ただ、私は別に条約の運用停止とかやらなくても、条約に則って共助を拒否すればいいと思います。そもそも、政治犯は共助の対象にはなりません。そして、恐らく香港国家安全法の規定の大半は、日本国内では犯罪に当たらないと思いますので、双罰性の基準によって弾かれるでしょう。

 

 なので、今やるべきは以下の2点だと思います。

 

①香港国家安全法で罰せられる行為は日本の法令では犯罪に当たらない事を確認する。
②政治犯や双罰性の無い行為に関する共助に応じない事を確認する。(注:条約上は拒否「できる」となっているだけなので、拒否「する」事を確約させる。)

 

 これが確認できれば、条約に則って共助に応じない事が担保されるという事です。条約の運用停止とか終了とか大騒ぎせずに、スマートに「うちは、条約の規定に基づいておたくの香港国家安全法をベースにした刑事共助はやりませんよ。」と宣言するだけです。


 一度、国会の閉会中審査での外務委員会を開いて、対外相でこの手の質疑をして、上記のような政府の方針を取り付ける努力をしてはどうかと思います。その時、仮に外相がゴニョゴニョ言ったら、次の手を考えればいいという事です。ゴニョゴニョ言いそうな気もしますが、条約の原則だけを振り翳して共助拒否について明確なコミットメントが無いと国内的な反発は避けられないでしょう。