今、書いている本向けに原稿を書いたのですが、紙幅の関係上、その内の4割くらいは使いません(涙)。ただ、お蔵入りするのも勿体ないので、少しずつ紹介していきます。

 

 今日は「GATTとWTO」です。よく新聞等を読んでいると、「GATT(ガット)」、「WTO」という言葉が出て来ると思います。大半の方には「なんだ、そりゃ?」という気になるでしょう。その成り立ちと意味合いについて、かなり省略形で書いています。本用に書いた原稿を殆ど弄らずに載せるので文章が少し硬いです。ご容赦ください。

 

1. GATTとは?

 元々は第二次世界大戦が終わろうとする昭和19年、アメリカのニューハンプシャー州ブレトン・ウッズに主要国が集って、戦後の経済秩序について議論が始まった。この成果として有名なのは国際通貨基金(IMF)の設立であるが、実はこの議論の中ではIMFを補完する国際貿易のための組織の必要性が認識されていた。

 

 ブレトン・ウッズ体制の中で、イギリスの経済学者ケインズが提唱したものは、GATTよりも幅広い形で貿易を規律するITO(国際貿易機関)の設立のみならず、貿易等の決済のために国際清算機関(ICU)や清算手段としての国際共通通貨バンコールの創設までをも含んでいた。また、貿易の理念系として、バンコールの運用を通じて貿易黒字、貿易赤字双方を事実上ゼロにするようなメカニズムを組み込んでいた。非常にザクッと言うと、貿易黒字、貿易赤字双方にペナルティを課すというもので、更には黒字国は通貨を切り上げ、赤字国は通貨を切り下げる、それでも過剰な貿易黒字が出る国が居る時はICUがその国の黒字を取り上げて国際公益のある活動に使う、そんな感じである。近年、国毎の経常収支の不均衡を是正する観点から、このバンコールの考え方を取り上げる経済学者が出てきている。複雑化した国際金融の中ですべてが可能となる事はないだろうが、ケインズのアイデアの一部なりとも取り込めないものかと思わなくはない。

 

 戦後、アメリカ主導で、貿易に関する包括的な国際ルールを規律するITOを作るための交渉が開始される。ただし、ITO交渉は難航したため、ITO交渉の関税と貿易に関する部分だけを切り離した協定の交渉も行われ、こちらが先行して昭和22年末には妥結し、昭和23年から発効する。これが「関税と貿易に関する一般協定」、通称GATTと呼ばれるものである。

 

 ただし、将来的にGATTはITOの一部として位置付けられるはずだったので、この時点では「暫定的適用」という位置付けであった。戦後の貿易体制を作るために、関税の引き下げを実現していく事の必要性が高かったため、この部分を急いだ事がよく分かる。つまり、GATTだけで長くやっていくつもりは無かったのである。

 

 ITO交渉は昭和23年3月には妥結する。キューバのハバナで採択されたのでハバナ憲章と呼ばれる条約として結実した。しかし、このハバナ憲章はあまりに包括的過ぎ、そして、当時としては、あまりに各国の国内経済に手を突っ込み過ぎていた。既にケインズは昭和21年に亡くなっているが、ケインズの理念が強く出過ぎたとも言えるだろう。また、逆側の視点からは、ハバナ憲章は多くの妥協策が盛り込まれていた事への不満もあった。結果として、このハバナ憲章がアメリカの連邦議会を通る見通しは殆ど立たなかった。当時のトルーマン大統領は何度か議会での賛成を取り付けようとチャレンジしたのだが、最終的に昭和25年には断念する。この時点でハバナ憲章は死に体となってしまった。今、ハバナ憲章を読み直してみると、失業、賃金、雇用にまで踏み込んでいたり、各国の一次産業保護の視点が読み取れたりして、追求しようとした崇高な理念と見識の高さには目を見張るものがある。

 

 ITO憲章が死に体になると、残るのは「暫定的適用」でしかないGATTだけである。これはただの関税と貿易に関する協定であり、国際機関ですらない。ただ、貿易を規律するのがGATTしかないので、事実上の国際機関として機能するようになる。事務局はジュネーブであった。

 

2. GATTの限界

 規律する範囲が狭い、組織が弱い、これがGATTの限界であったと思う。しかし、それでGATTを批判するのはお門違いである。そもそも、法的基盤がしっかりしていない存在であり、大きな荷を背負う事が出来ない状態でスタートしたのであるから、限界があるのは当然である。当初はGATTの事務局を作る事すら想定されていなかったが、ITO構想が崩壊したため、事実上の国際機関として実績を積み上げていかざるを得なかった。

 

 発足後6回のラウンド(関税引き下げ交渉)を行う中で、GATT加盟国は増え、また、自由化の度合いは高まっていった。しかし、GATTのルールでは捕捉できないような様々な貿易の妨げになる手法が横行するようになっていった。ECが農業保護に使っていた可変課徴金、余剰農産物を輸出するための輸出補助金、アメリカが要求する輸出自主規制などは代表的なものであろう。

 

 世界経済が停滞していた昭和57年のGATT閣僚宣言を改めて読み直してみた。簡単に纏めると「GATTのルールの下、一定の自由化は進んできているが、一方でムチャクチャやっている国(主に先進国)が増えてきている。しかも、GATTのルールが古臭くなってきている。ここらへんでタガを嵌めないととんでもない事になる。」という危機感が伝わってきた。先進国のムチャクチャなやり口に途上国が怒っているようにも読める。当時は2度のオイルショックを経て、高失業率とインフレの同時進行であるスタグフレーションの時代だったので、現在とは少し事情が違うが、閣僚宣言の文章を読んでいると、現在の危機的な状況への認識と大差が無いので驚く。

 

 当時は日本も輸入禁止品目や極めて不透明で輸入制限的な措置が講じられていた。コメ、小麦、大麦、乳製品の一部、でん粉、雑豆、落花生、こんにゃくいも、繭・生糸及び豚肉といった品目については、●%(従価税)、●円/kg(従量税)といった簡潔な関税構造をしておらず、何らかの不透明で輸入制限的な仕組みがあった。ただ、それが通商ルール上違法だったわけではない。

 

3. GATTウルグアイ・ラウンド

 そして、かなり包括的な交渉分野を対象とするウルグアイ・ラウンドが昭和61年にスタートする。何故、ウルグアイ・ラウンドと言うかというと、交渉を開始した閣僚会合がウルグアイのプンタ・デル・エステで開催されたからである。こうやって歴史文書等に名前を残すというのは、その後も続き、WTO協定の正式名称は「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定(モロッコ)」、次のラウンド交渉は「ドーハ開発アジェンダ(カタール)」であった。日本が気候変動枠組み条約の京都議定書に名を残したのと同じである。

 

 7年に亘る交渉を包括的に説明する能力は私には無い。簡単に言えば、モノの貿易のみならず、サービス貿易、知的財産権、紛争解決手続、検疫、企画、ライセンシング等、当時としては相当に幅広い分野を取り込んだ交渉だった。モノの貿易については、農業交渉が特別に取り出され、国内補助金や価格支持政策、輸出補助金について初めて取り上げられた。そして、正式な国際機関たるWTOを作る事も含まれていた。ケインズが夢見たITOの包括性や志の高さに比べると、まだまだ不十分なのかもしれないが、このWTOは「50年遅れてやってきたITO」と言えるのかもしれない。

 

4.    農業(例外なき関税化、補助金への対応)

 前述の通り、GATTウルグアイ・ラウンドでは、農業分野だけを切り出した交渉が行われた。これ自体が画期的な事であった。取り組まれた事の中で特徴的なのは「例外なき関税化」と「補助金」である。1980年代、ともかく農産品貿易の状況は荒れていた。ECとアメリカは、関税以外の特殊な手法で国産農産品を保護するのみならず、補助金についてはジャブジャブで攻撃的な輸出戦略が採られた。アメリカは直接的には輸出補助金を出していなかったが、国内の補助金やローンは事実上輸出を促進する効果があった。

 

 その中で出てきたのが、「例外なき関税化」という考え方である。これは何かというと、どんな特殊な保護の仕方をしていようとも、すべて関税での保護に転換しなさいというルールを意味する。ここで言う関税とは、前記の通り、●%(従価税)、●円/kg(従量税)というのが基本である。言い換えると、関税化とは簡素で分かり易い仕組みで保護するという事だと私は理解している。

 

 日本はコメとの関係で「例外なき関税化反対」を最後まで言い続け、最後までこれで突っ込んで例外措置を勝ち取った。勝ち取ったはずだが、よく気が付いてみると大損をする内容であり、WTO協定が発効して4年で「やっぱり関税化します」と方向転換している。当時の雰囲気からして「例外なき関税化」回避が至上命題だったが、それで突っ込んで大失敗した例として記憶されるべきものである。そして、コメ以外の品目、つまり小麦、大麦、乳製品の一部、でん粉、雑豆、落花生、こんにゃくいも、繭・生糸及び豚肉についてはどんな形であれ関税化した。

 

 また、補助金について切り込んだ貿易協定は、これまでWTO農業協定だけである。どんなに貿易自由化しても、先進国が補助金ジャブジャブで自国を守り、ましてや他国の農産品市場を荒らしてしまえば、自由化の意義は減殺されるという問題意識である。特にEUが出している輸出補助金に対する目線は厳しかった。ここでよく考えなくてはならないのは、この世界の農業補助金に対する世界共通のルールはWTO協定で止まっているという事である(勿論、各国とも財政状況が厳しいので独自に補助金改革は進めている。)。TPPが進もうとも、日EU経済連携協定が進もうとも、日米貿易協定が進もうとも、補助金にはメスは入らない。二国間や複数国間の協定で補助金を削減する国はない。「WTOなど要らない。有志でやっていけばいい。」という考えを最近よく聞くが、絶対にWTOでしか取り組めない分野がある事を忘れてはならない。

 

5.    WTOという国際機関

 そういうウルグアイ・ラウンド交渉を経て、作られたWTO協定は平成5年末に妥結、平成6年4月に署名、そして、国会審議等を経て平成7年1月1日に発効する。協定の発効とともにWTOという新しい国際機関が発足した。

 

 発足当初はGATT事務局長を務めていたピーター・サザーランドが暫くWTO事務局長を務めていた。ただし、事実上の初代事務局長は、イタリアの元対外通商大臣であったレナート・ルッジェーロ。この事務局長選考プロセスは日本にとって痛いものであった。詳細は書かないが、韓国に二枚舌ではっきりと裏切られたのである。大学時代に読んだイギリス人外交官ハロルド・ニコルソンの「外交」という本には、「外交においては正直が一番大事だ。嘘をつくと長期的には損をする。」といった趣旨の記述があった。そう信じて外務省に入った私には、この事務局長選挙での韓国の立ち振る舞いは一発目の強烈なパンチだったように思う。あの時以来、こういう時の韓国は信頼が置けないと思うようになった。とても残念な経験であった。