【以下はFBに書いたものに加筆・修正を加えたものです。】

 

 少し前にこういう記事を読みました。記事にもある通り、1990年代前半くらいには既に親の年収と学歴との相関性はかなり顕著でした。私が平成3年に東京大学に入った際はまだバブルの残り香が相当に強くて、親の平均年収は1100万円くらいでした。私の親の年収はその半分をかなり下回っていました。勿論、親は管理職ではありませんでした。

 その時くらいから「負けてたまるか。」という感情が芽生えて、現在に至ります。時折、私の父は「高校時代、自分と同じくらいの成績の同級生は一浪して九州大学に行った。自分は貧乏で大学進学の選択は無かった。」という話をしていたのですが、それが幾許か影響を与えているのだと思います。

 ただ、私が大学で身に沁みたのは、実は「年収格差」ではありません。どちらかと言うと「文化資本」の差の方がとても印象的でした。多分、こちらの方が重要だと思いますし、ずっしりと背中に重く乗ります。

 

 上手く説明できないのですが、ともかく「文化」が違うのです。勿論、それは収入を背景にしている所が大いにありますが、それだけが理由ではありません。入学直後、同級生の自宅に行った時、会話、家財、作法、芸術との近接性・・・、九州から上京してきたばかりの私にはすべてが衝撃的だったのを思い出します。卑近な例で言うと、「オードブル(hors d'oeuvre)」と言われて、プラスチックのサークルトレーに入ったお惣菜を想像していたら全然違ったので困惑しました。「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」と聞いて、この曲以外に思い浮かぶものが一つも無かった事で恥をかいた事もあります。

 ただ、それにもめげず、「負けてたまるか。」の根性に勝手に自分で火を点けて、大学3年次に外務公務員一種試験に合格しました。私のケースは、多分「年収格差、文化資本の差で大負けしている」のをむしろ発奮材料にしていたのだと思います。なお、「エリート・コースを狙ったんでしょ?」と聞かれる事が多いのですが、実は違います。単に「大学を3年で抜ける事が出来るなら、親の金銭的負担が減るから。」と思ったのです。

 外務省に行くと、(東大在学時に比して)更に「文化資本」の差を感じました。具体例を書くとかなりの差し障りがあるので止めますけど、この重圧はかなりのものがあり、私は幾度となく背伸びをしては大コケして失敗していました。その時も「負けてたまるか。」という思いが、結構、自分を支えていました。

 

 この「文化資本」による格差の拡大は、「当事者達は全く気付かない。」という怖さがあります。収入格差のように、金銭という明確な指標がないので、なかなか気付けません。比較できる環境に立たない限り、そもそも、差がある事、その蓄積による差が広がっていっている事に気付く事は難しいです。そして、ある日突然、ズドンと突き付けられます。

 

 また、この「文化資本」の話をすると、「運命論」みたいに聞こえるという欠点があります。社会の中に、目には見えないストックとしての「文化資本」があり、それが世代毎に継承され、社会的ステータスが再生産されていくという事になると、では「どうすればいいのか?」という事になります。「箸の持ち方でお里が知れる」と言われてしまうと、努力による挽回を否定されているようにも聞こえてしまいます。

 

 ここまであれこれと小難しく書きました。ただ、今でも、私はチャンスをくれた日本社会にとても感謝しています。そして、多くの若い方にチャンスを掴んでほしいと思います。私は現職時代、文教の世界にはあまり深く関与していませんでしたが、私が国政で目指す事の中心には、この「チャンス」を提供するという事があります。

 しかしながら、「チャンスは平等。あとは努力して頑張れ。」と言い放つだけでは回らない世の中になってきています。収入格差の再生産に伴い、文化資本の再生産が進み、文化資本の蓄積の圧倒的な格差が日本社会に出てきています。私の学生時代に比して、この格差へのチャレンジはどんどんハードルが上がっているように見えます。(「運命論」を是とするわけではありませんが)ただ、そこは社会全体の構造の話になってきますので、政治では短期的に解決できない部分があり、悩ましいです。

 

 それ以前の問題として、貧困の結果、チャンスが眼前にある事すら見えない子どもがいます。こちらは政治で短期的にも一定程度の解決を目指せる話です。だからこそ、少なくとも金銭的貧困を理由に学業を諦めるような世の中にしてはならない、という使命感のようなものが私にはあります。もっと言えば、貧困を理由にチャンスを掴める可能性を思いすらしない、という子どもが出ないようにしなくてはならないと強く思います。そのためには、今、「名目上のチャンスの平等」だけでは不十分で、もう少し社会が下支えしなくてはならない子どもが増えてきています。

 

 先日、児童養護施設の子どもと話す機会がありました。社会の中でとても弱い立場に置かれています。個々の子どもの背景を推し量りつつ、「君達がチャンスを掴めるように、おじちゃん頑張るから、君達も頑張るんだぞ。」と心の深い所でずっと願いました。