2005年7月31日付で外務省を退職し、辞令を貰ったのが翌8月1日でした。あれから10年が経ちます。当時32歳、当たり前ですが今、42歳です。最後のポストは国際法局条約課課長補佐でした。正直な事を言うと、外務省での最後の日はあまり良い思い出とはなっていません。

 色々な事があった10年でした。2006年9月までは議員会館内に居ました。その後、北九州市に戻り、2007年10月からは福岡9区総支部長として活動を始めました。2009年8月30日に初当選(小選挙区、福岡9区)、2012年12月16日に落選、2014年12月14日に2期目の当選(比例区、九州沖縄ブロック)というのが大まかな流れです。ここまでの10年で当選していた時期というのは、概ね4年です。

 思い出す事はたくさんありますが、3つの事が今でも印象に残っています。

 1つ目は「最初に地元で活動を始めた時」です。大学入学で地元を離れて14年、誰も私の事など知りません。最初に八幡駅で駅頭をやった時、1時間、足が震えました。道行く人は「誰、この人?」と言わんばかりの視線。次の日は、朝、起きるのですけども、立ち上がる勇気がなかなか出て来ませんでした。自分で運転して駅に向かうけども、今度は車から降りる勇気がなかなか出て来ない、そんな感じでした。

 10年経ってみて、今では色々な人に声を掛けていただけます。今朝も街頭演説をしていましたが、多くの知り合いから激励を頂きました。紺碧の空を見ながら、「10年経ったよな」としみじみ思いました。

 2つ目は「落選していた2年」です。42年の人生の中で、これほどまでに貴い2年は無かったと確信しています。汗を拭きながら地域をコツコツと回り、時には叱られ、時には塩を投げつけられ(1回だけですが)、しかし、時には激励され、そして、地元を良く知り、地元を愛することを覚えた2年だったと思います。

 決して楽ではありませんでした。「二度と緒方なんか当選できない」とご批判を頂いたこともありました。白髪は増えましたし、円形脱毛症にもなりました(結構、大きかったです。)。しかし、あの時期があったから、今、国会で色々とやらせてもらっていると、地元北九州の皆様への感謝の思いが込み上げてきます。

 そして、3つ目は「2014年12月14日(から15日未明)」です。まず、12月14日20:00に投票箱が閉まった瞬間、NHKで福岡9区の欄が空いていた(つまり、誰にも当確が付かなかった)時、ホッとしました。2年前は20:00時の段階で相手に当確が付きました。それは「開票するまでも無くボロ負け」を意味します。「さて、これから!」と思うや否や、「はい、負け」と言われてしまうあの物悲しさは本当に辛いのです。

 その後、21:30くらいで小選挙区での敗北が決まり、あとは比例区での情勢です。事務所からは「当落が決まったら5分で駆け付けられる場所にいるように」と言われていたので、八幡東区前田のジョイフルの隅っこで妻と一緒に待っていました。佐賀1区の原口代議士、大分1区の吉良代議士の小選挙区当選が報道で流れた時、夫妻でガッツポーズをしました(比例の枠が空くので)。この両代議士はいわば「命の恩人」です。

 時間は過ぎ、15日01:00頃、民放4社で当確が出ます。しかし、NHKだけが慎重で最後の最後まで当確を打ってくれません。開票所はすべて終了しているにもかかわらず、いつまでもNHKの開票率は99%。「1%で2000票、それくらあればひっくり返るかも。」と恐怖感を持ちながらも待ち続けました。

 02:15分頃、事務所から「もう遅くなってきたし、民放4社が当確を打っているのだから、事務所に来なさい。」とお達しがあり、一抹の不安を持ちながら事務所に行きました。実は最後の最後まで不安は拭えなかったのですが、さて、これから「バンザイ」をするその瞬間、事務所入り口の所に居たT先生が「NHKも当確出た」と言われ、すべての憑き物がストーンと落ちた気持ちになりました。写真を見直してみると、もう無茶苦茶なバンザイをしています。

 この3つの事が、今、胸に去来します。その間、お支えいただいた方への感謝の気持ちが込み上げます。曲(ココ)の意味は全然違いますが、「あれから10年も、この先10年も」というフレーズが身に沁みます。

 振り向かず、急がず、立ち止まらず、この先10年も進んでいきたいと思います。