● 21日
 今日は、グルジア西部の教会ダヴィッド・ガレジャに行くことにした。6世紀頃、ダヴィッドというSyrian Fathersの1人(何のことか分からないがガイドにそう書いてある。)がエルサレムに巡礼した際、石を一つ持って帰ってきて、それを祭った修道院とかいったようなことらしい(ただ、その意味するところはよく分からない。)。まあ、ともかく一見の価値があるということなので行ってみることにした。

 朝、街郊外のバスセンターからマルシュルートカ(乗合バン)でダヴィッド・ガレジャに行くための起点となるガルダバニという街に向かう。グルジアはロシア離れをしているとは言え、郊外に出るとすっかり「ダメダメーな感じが漂うロシアの街」と同じである。時代遅れの潰れた工場とか、意味なく規模だけがでかいアパートとか、そんなのばかりである。1時間半くらいでガルダバニに着く。この街は何もないので、ハチャプリを調達して、早速、タクシーをチャーターして(値切らなかったので40ドルくらいだったと思う。)、ダヴィッド・ガレジャに向かう。


 ガルダバニの街を出て10分くらい行くと、目の前で工事をしている。大地に黒い線が走っている。ここで小生とカリホはピンッと来た。「あれはバクー・ジェイハン・パイプラインだ。」。そう、この地域にはアゼルバイジャンのバクーからトルコのジェイハンまで通るパイプラインが走ることとなっているのである。もう少し経緯を説明すると、カスピ海には石油資源がかなり出るが、それを外海に出すための手段がない。今はロシアを経由せざるを得ない。本来であれば南に抜けて、イランやアフガニスタン経由でインド洋に出すのが一番いいのだが、イラン・ルートはアメリカが反対しており、アフガニスタンは将来の課題ではあるが、アフガニスタン西部のヘラートはまだ軍閥が支配する地域であり当面パイプラインを引ける可能性はない(ただ、そのルートの出口として最も有力となるパキスタン・バルチスターン地方のグアダル港にはしっかり中国が進出している。彼らは恐ろしい。)。したがって、アメリカは何を考えたかというと、地中海にパイプラインを結ぶことを考えたわけである。とは言え、地図を見てもらえれば分かるが、アゼルバイジャンから最短距離で地中海に石油やガスを輸送しようとするとアルメニアを経由してトルコに向かうこととなるが、それはアゼルバイジャン、トルコとアルメニアの関係を考えると無理である。故にアゼルバイジャン→グルジア→トルコと非常に迂遠なルートを伝ってから、地中海に至るパイプラインを引いているのである。クリントン政権時代に鳴り物入りで決まった話だが、それが着実に進んでいる姿を今、眼前にしている。

 カリホは写真をとろうとしたが、やはり戦略的施設なのでガードマンに断られる。カリホは小生に「俺が交渉しながら相手をひきつけるから、リンタはデジカメでとりあえず写真と撮ってくれ。」と依頼する。ということで、小生はカリホ達に背を向けて用を足しながら、こっそりデジカメを出して、バシャバシャ写真をとった。目視で焦点を合わせることはできなかったので、腰元あたりにカメラを構えてとりあえずシャッターを切りまくった。結果としてよく撮れていたのだが、用を足しながらだったので、若干、小生のGパンが犠牲になってしまった。いずれにせよ、なかなか撮れない写真である。カリホは仕事で使うとか言っていた。いずれ、外務省の資料に小生が撮ったバクー・ジェイハン・ラインの写真が使われるかもしれないが、それを見ても決してGパンの変なところが濡れている情けない小生の姿を想像してはいけない。


 そんなこんなで40分くらいでダヴィッド・ガレジャに到着。山間に枯れた大地が広がる。昔はソ連軍の演習に使われていた地域ということである。山間で勾配のある丘が延々と広がる景色は、たしかに軍の演習にはうってつけである。その時代からグルジア人は「聖なるダヴィッド・ガレジャで軍の演習など不遜な行為だ。」と反対していたようなのであるが、グルジアが独立した後はグルジア軍が一時期、演習に使っていたそうである。さすがにそれは民衆の反対で止めたということらしいが。



 観光地かと思いきや、誰も居ない。恐らく季節が悪いだけだろうと思う。ただ、入場料も何もない。入って見ると、古いキリスト教の修道院がそこにはあった。その良さと趣深さは文章で説明するに余る。昔から変わらぬ永遠の時間が流れているといって過言でない。切り立った崖の中には修道僧がいるようである。と思っていると、お兄さんが出てきて、案内してくれるという。「こりゃラッキーだ。」と付いていくと、お兄さんは突然道なき坂を登り始めた。勾配度の高い坂をお兄さんは登り始め、小生とカリホはそれに付いていく。山登りというには辛すぎる坂登りを強いられ、20分くらい登り頂上に達するとそこには一面の大地が広がる景色が広がっていた。その頂上はアゼルバイジャン領にあるとの事である(が当然、国境検問所などあるはずもない。)。不信心な小生でも何らかのスピリチュアルなものを感じる。


 頂上の周辺には洞と修道院があり、古いイコンが描かれている。きっと6~7世紀頃のものであろう。やはり、この地域にもイスラムは来たようであり、御丁寧にイコンの顔は消されている。ホントにムスリムというのはこの点、徹底している。修道院は閉まっていたが、まあ、よくもこんなところに、と思うような場所で昔の人は祈りをささげたのである。感心するばかりである。


 山を降った後、案内してくれたお兄さんに謝礼として10ドル程度をあげようとしたら、「いや、要らない。何なら修道院に寄付してくれ。」と言われてしまった。世の観光地には勝手に案内して、謝礼をせびるヤツばかりなのに、このお兄さんはホントに自己の信心に忠実に生きている。その心意気に感動して、修道院の賽銭箱には20ドル入れておいた。


 その後、トビリシに戻って、今晩はルイーザお勧めのレストランで、ルイーザと三人で夕食である。川沿いにある洒落た感じの伝統グルジア料理を出すレストランであった。レストランの中では、グルジア音楽の生演奏と合唱が行われていた。これまた表現するのが難しいのだが、ウィーン少年合唱団のような感じで男性が高音で歌う感じといったところか。古くからグルジアの山奥に伝わる音楽だろうと思う。想像力が貧困な小生でもコーカサスの山並みを想像する。なかなか興がある。出てくる料理は、どうしても肉料理とチーズが中心になる。一つ面白かったのは、フランス料理のブーダン(boudin)に似たものが出てきたことである。端的に言うと、動物の内臓と血を詰めた臭いソーセージである。小生の基準では「臭いものを食べる人間は比較的文化が高い」ということになっている。まあ、いずれにしても、日本人の口にも合う洗練された料理だったと思う。グルジア・ワインのキンズマラウリとともに舌鼓を打つ。グルジア・ワインは甘味が強いということもあり、フランスワインやチリワインには及ばないが、なかなかイケるものである。3人でしこたま食って、たしか65ドル程度。現地価格から言うと超高価なのだが、まあ、よしとしよう。


● 22日
 今日は、トビリシ近郊にある世界遺産ムツヘタに行くことにする。トビリシからマルシュルートカに乗っておよそ30分も北に行けば、そこが古き街ムツヘタである。今回行くすべてのユネスコ世界遺産に共通していたことなのであるが、まず、それをタネに観光化を進めようといった動機をまったく感じない。というよりも、街の人がその事実を知らないのである。日本では世界遺産というとすぐに「観光→お金」と結びつける不埒な輩も結構多い。また、幾つかの国では政治的な理由で世界遺産化を目指すケースも少なくない。


 ムツヘタに着く。趣深い教会以外にホントに何もない。仕方ないので教会巡りである。何と描写すればいいのか分からないが、ともかく古さが良い味を出している。教会の一部は6世紀頃の建築だということである。キリストの絵なども、ちょっとおどろおどろしい感じがする。ここだけ時がルネサンス前かと思いたくなるような構図である。信仰の対象というよりは畏怖の対象とすら言えるかもしれない。凍った川と静かな教会、川のほとりで先人は何を考えただろうとぼんやり思う。


 ムツヘタは街中の教会もなかなか捨てがたいのだが、やっぱり目玉は近隣の丘(というか山)のジュヴァーリである。ムツヘタの街中を一望できる場所で、タクシーに乗ってジュヴァーリまで登る。グルジアの北部から来る川と、西部から来る川が合流して、トビリシに南下していく場所、それがムツヘタだということがよく分かる。壮大な景色を堪能した。ただ、この時は瞬間的にカリホと仲違いしていたので、何となくイライラしながら見て回ったことを覚えている。何が原因だったかも覚えていないのだが、ともかくムッとしていたことだけをよく覚えている(なので、ムツヘタの巻はあまり詳細には書かないことにした。)


 まあ、世界遺産というには「そこまでのものかねぇ?」と思わなくもないが、たしかに古い古い教会とその背景にある歴史の重みを感じさせる場所ではあった。世界遺産オタクとしては、あまりレーティングは高くない(今回行った4つの中では一番魅力に欠けた。)。まだ、前日行ったダヴィッド・ガレジャの方が良かった。


 そのムッとしたままトビリシに戻ったので、夜飯も一人でトビリシの街に出ることにした。しかし、小生は当然ロシア語が出来ない。ましてやグルジア語で書かれたものなど、絶対に無理である。困った。そもそもどのレストランに行けば、英語のメニューが出てくるのかすら分からない。大体、こういう時は失敗するのである。昔、ウルムチで中華飯を食おうと思って入った店は当然、英語など通じず、辛いものという意味をこめて「辛」「食」の二語を書いて見せたら、どうも中国語では辛いことを意味したいときは「辣(ラー油のラー)を書かないと通じないということを後で知った。辛だけだと「つらい」ということらしく、小生は「辛」を強く示したら店員が何故か心配してくれたのを思い出す(きっと、何かが辛い(つらい)と思われたのだろう。)。あと、ビールを頼もうと思って「ピジョー(と発音すると通じた)」と行ったら、キャンペーン・ガールみたいなお姉さんが出てきて、あれこれ説明しようと努力してくれるから、「何でも良いから、持ってきてくれ。」という素振りをしたら、そのお姉さんは最近売り出し中の「フルーツ・ビール」というこれまた得も言われぬくらい不味い代物を出してきて閉口した記憶がある。ビールのようなものに、化学薬品っぽいフルーツの味(フルーツ味歯磨きのような)が混在していて、飲んだ瞬間に「うっ…」と来た記憶が懐かしい。あれは絶対に中国でも流行らなかったと思う。


 そういう嫌な経験があるので、「こういう時は全世界共通のものに限る。」と思って、思わずマックに行ってしまった。我ながらショボい選択だと思うが、ここに来て使える男カリホを切り離してしまったことを恨む。また、いつも職場でマックばかり食べているマック君の顔が思い浮かぶ。大体、こういう国ではマックは高級品である。「月一の御馳走」ということでマックに来ているのだろう。皆、楽しそうにあのマックを食べている。小生も「Mac Chicken, please」。味も基本的には日本で食べるものと同じ。あー、この感覚、世界中何処でも一緒だぜーと、ちょっと感動した。感動したのだが、今回の旅行で唯一わびしい夜飯だった。やっぱり、外国旅行をしてまでマックに手を出してはいけない。


● 23日
 今日は一人でロシアとの国境近くのカズベギまで行くことにした。周囲のグルジア人は皆、「雪が深いから止めといたら?」と勧めてはくれなかったが、それなりに関心があるのでちょっと無理をして行くことにした。


 ちなみに、そのカズベギという街はグルジア領内でも南オセチア共和国というところにある。何故、そんなところに行ってみようと思ったかというと、それなりに職業意識から来るところもある。昨年、ロシアの北オセチア共和国ベスランというところでチェチェン人と思しきグループがテロ事件を起こしたのを御存知かと思う。しかし、その関係でよく知られていないことは、北オセチア共和国はロシアだが南オセチアはグルジア領内にあって、オセチア人は分裂された民族であるということである。何故、チェチェン人が近隣のイングーシ共和国、ダゲスタン共和国でなく、北オセチア共和国でこの事件を起こしたのか。それは我々には知る由もないが、一つの推論として「北オセチアでドカンと事件を起こせば、南オセチア、ひいてはグルジアに波及する。そうすれば、本件はロシアの内政問題ではなく国際問題化することができ、しかも、オセチア人の民族自決というテーゼとも絡めることができる。さらには、グルジアは米国の強力なバックアップを受けている国であることから、米国も巻き込むことができる。」ということがありうる。たしかに、北オセチアでの事件後、ロシアは南オセチアに逃げ込んだチェチェン人に対して「先制攻撃」をすると言っているから、上記の推論はそれなりに当たっているのかもしれない。


 今日のカズベギは一人である。カリホはルイーザとともにトビリシ市内をもう少し回ると言っている(実際は腹を壊して倒れていたようである。)。郊外のバスターミナルで、カズベギ行きのマルシュルートカを探して乗り込む。周囲は皆、新年のために故郷に戻る装いの人達ばかりである。狭いマルシュルートカの中で間違いなく小生は異質である。珍しいのか、色々と話し掛けてくれるがさっぱり分からない。マルシュルートカは北に向かう。この道路は軍用道路(Military Highway)と呼ばれているが、何か軍と関係があるのかはよく分からない。ガイド等によれば「道は悪い」と書いてあるのだが、幸運なことに雪が踏み固められているのでガタガタの砂利道ではない。ただ、それは取りも直さず、ツルツル滑るアイスバーンの上を走っているということなので、運ちゃんが一歩間違えれば大事故である。こんなところで死んでも誰も同情してくれないことは請け合いである。

 ガイドによれば、南オセチア地方は、中央政府の支配があまり及んでいないchieftainによるfiefdomだと書いてある。これだけ読むと、怖い顔した首領様がいるかのように思えるが、単に独立心が強くて自治がしっかりしているということのようである(あと、ロシアが介入して中央政府離れを促している。)。別に不穏な感じは受けなかった。まあ、寒いので怖い顔をしたチェチェン人が出てこないだけかもしれないが。グルジアにはそういう地域が多い。南オセチア、アブハジア(西北部)、アジャリア(西南部)と国土の半分くらいは中央政府の支配が及んでいない。ほぼ間違いなく、その背後にはロシアが糸を引いていたりする。アブハジアなんてのは綺麗な地域らしいのだが(特にスヴァネティという地域は世界遺産になっている。)、普通には行けないらしい。


 そんなことを考えながらも、マルシュルートカはひたすら北に向かう。次第に雪が深くなってくる。気がついたら一面、雪景色になっていた。「おー、コーカサスのど真ん中だぜ。」と一人感銘に更ける。勿論、時折ある街の風情はやっぱり「ダメダメーなロシアの田舎」である。上記にも書いたが、個人的に、何故、旧ソ連圏の地方というのはああいう共通したダメダメーな感じが出ているのかに関心がある。誰も働いておらず、今は動いていない(動いているのかもしれないが)重厚長大な工場の残骸みたいなものがあって、街中に活気というものが全くないというのが常である。何処に行っても、あの雰囲気が共通しているというのはある意味「ソ連恐るべし」と思わせるものがある。


 そんなこんなでカズベギに着く。周囲は完全にGreater Caucasusである。雪を抱いた壮大な山並みが広がる。これを見るだけでも、来た価値があったと思う。ここは既にロシア国境まであと数キロ、ロシアのウラジカフカース(北オセチア共和国)まで数十キロのところである。というと、何かすごいことのように思うかもしれないが、当然ここもイケてないダメダメーな感じが漂っている。何か有益な経済活動が行われているようには思えない。




 何もすることがないので、街の唯一の見物であるツミンダ・サメバ(山の上にある教会)に行くこととした。ガイドで見る限りは2キロくらい歩けば行けることになっており、そこから見る景色はstunning sceneryと書いてある…。しかし、小生は転ぶ。転びまくるのである。それなりにトレッキングにも使える靴を履いているはずであるが、雪が踏み固められた路道で転びまくるのである。ツミンダ・サメバ目指して果敢に歩くが、どう考えてもこの転ぶ頻度を考えると到達するには50回は転ぶ必要がある。いくら柔道二段、偏屈五段の腕前といえども、それは辛いものがある。しかも、進めば進むほど周囲は雪が深くなって、どうやって行けばいいのかすら分からなくなってきた。かなり頑張って登っていったが結局、諦めてしまった。かと思えば、小生の傍を少年たちがソリに乗ってすごい勢いで、小生がこれまでコケまくった坂を下りては、また、坂を走って登って、また、坂上からソリで降りてくる。ヤツらの靴はどういう構造をしているのか不思議でならない。恐る恐る坂を登る小生の傍を少年たちがソリで通り過ぎながら「Hey!」と言っている。「てめえら、畳の上なら負けねえぞ。」と思いながらも、ここでは彼らの方がはるかに優位であることを認めざるを得ない。


 仕方ないので、ツミンダ・サメバは諦めて、カズベギの街に戻る。かといって、先程も書いたようにカズベギの街自体はダメダメーなのである。しばらく街中を散策するが、勿論、レストランの一つも開いてない。まあ、よく考えれば、こんな極寒の中、レストランなんか開けていても客がいるはずがない。せいぜい変な日本人観光客くらいしか寄らないことは確実である。雪が降ってくる。小生は雪が降る時、勝手にブライアン・アダムスの「ヘヴン」を自分のテーマソングにしており、ここでも「ヘヴン」の曲を口ずさみながら気分は盛り上がりすっかりブライアン・アダムスなのだが、ここは所詮世界の果て、次第にとてつもなく寒くなってきて、ブライアン・アダムスどころではなくなってきた。街は人影もまばらである。既に「観光」という次元をはるかに超えて「苦行」のレベルに入ってきた。大体、小生の冬の旅というのは常に苦行になる。去年のチベットもそうだった。エベレストのベースキャンプで夜、高山病のためのたうち回ったことを思い出す。仕方ないので営業していると思われるパン屋に入り込んで、パンと茶を所望する。何の変哲もない温かいパンと茶がありがたい。


 そうやってボーっとしていると、トビリシに帰るマルシュルートカが見つかったので、そそくさと乗り込む。マルシュルートカに乗り込むと、恐らくロシアから入ってきた色々な物資(食料品とか衣料品)が山積みにしてあり、客は小生とおばさんの2名。小生の乗車は収入源としては全く期待されておらず、これらの物資のおまけである。マルシュルートカは午前中きた道をひたすら駆ける。夕暮れのコーカサスは紅茶色の夕暮れの光を受けて、これまた赴き深いものがある。雪原の中に時折見える民家の煙突から煙が出ているのが唯一、人間様の存在を思い出させる。こういうところに住んでいる人は何を考えて生きているのだろうかとふと考える。


 3時間ぶっ飛ばしにぶっ飛ばしてトビリシに着く。もうとっぷりと夜は更けていた。これまた旧ソ連圏によくありがちな、きっと最近建設した盛り場の趣味の悪いネオンの光がちょっと嬉しい。さすがに疲労困憊でほうほうの体で宿に帰る。…、誰も居ない。買物にでも行っているのだろうが泣けてくる。仕方ないので、近所にあったインド飯屋に入る。こういうところにまで進出するインド人というのは大したものである。中国人とインド人は世界の何処ででもレストランをやっているのでありがたい。体調が少し降り気味になっている中、マサラティーとカレーがとても嬉しい。


腹も一杯になって宿に帰るとさすがにゼイコさんもカリホも帰っていた。皆で小生の帰りが遅いので事故にでも遭ったのではないかと心配していたようである。現地の人の感覚でも、こんな時期にカズベギなんかに行くのは無理があったようである。何はともあれ、カズベギは良い経験だった。


● 24日
 24日と言えばクリスマスである。日本ではカップルがそれぞれ楽しい行為に及んでいるのだろうが、正教系のクリスマスは12月24日ではなく、1月6日(アルメニア)、7日(グルジア)である。したがって、東京の街にクリスマスのイルミネーションが光ろうが、織田某の(ちょっと如何なものかと思う)「ラスト・クリスマス」が街中に流れようが、小生とカリホには関係がない。


 今日はグルジアからアルメニアに南下していく日である。朝、カリホと国際線バス・ターミナルに行く。義理堅いルイーザも見送りに来てくれている。バス・ターミナルにはエレヴァン行きだけでなく、なんとギリシャ行きというのもあった。アルメニアとトルコの国境は一般人には開いていないので、グルジア領をグルッと回ってトルコ北部に出た後、イスタンブールを抜け、ギリシャまで行くのだろう。どう考えても70時間以上はかかるはずである。


 ルイーザと別れを惜しんだ後、マルシュルートカは南に向かって走る。といっても、元々小さな国なので1時間強もすると国境に着く。別に何の変哲もない橋がかかっているだけで緊迫した感じもない。アルメニア側に入ると、事務的におじさんが査証を出してくれる。30ドル。ここではもう「ディーディー・マトローバ」は通用しない。これまた覚えたアルメニア語「シュノルハカル・エム(ありがとう)」と言ってみる。やっぱり、相手は嬉しそうである。国境での手続で嫌がらせをされないというのは、とてもありがたいことである。空港で「スパシーバ」と言っても、鼻でふんっとあしらうだけのロシア人とは大きな差がある。「ロシアも見習え、バカ!」とここでも思う。


 アルメニアについては、以前、イラン・トルコ国境に行った際に見たアララート山が初めての出会いであり、今回が2回目となる。アララート山というのはノアの箱舟が流れ着いた(?)とされる山で、アルメニア人にとっては聖なる山である。しかし、何故かアララート山はトルコ領内にある(しかし、アルメニアの首都エレヴァンから見える。)。アルメニア人は歴史的にトルコにボコボコにやられていて、第一次世界大戦中には150万人の大虐殺があったとされている。しかも、聖なる山まで奪われて踏んだり蹴ったりである。ちなみにそういう経緯もあってか、アルメニア人はディアスポラとして世界中に散らばっている。ユダヤ人やレバノン人同様、ディアスポラを経験した民族が経済的に成功しているケースは多い。一番、驚いたのはエルサレム旧市街(城壁の中)にユダヤ教徒街、キリスト教徒街、イスラム教徒街と共にアルメニア人街があることである。ああいう聖なる街にまで出て行って、しかも一定の勢力を維持できるアルメニア人、恐るべしである。あと、傭兵として時折アルメニア人の名前を聞くことがある。数ヶ月前、赤道ギニアのンゲマ大統領をクーデターで倒そうとしたマーク・サッチャー(サッチャー元英首相の息子)が南アフリカで逮捕されたが(その後、不透明なかたちで釈放)、同時にアルメニア人傭兵数人が逮捕されていた(これまた最近、恩赦があった。)。どういう関係があるのか分からないが、そういう才覚があるのだろうか。


 マルシュルートカはさらに南に向かって走る。ここで気付いたのだが、何故かトルコ資本のトラックが走っていたりするのである。何故、敵国アルメニアの領内でトルコのトラックが走っているのかはよく分からないが、何だかんだ言っても隣国トルコと完全に国境を閉じることもできず、国境管理は是々非々でやっているのかもしれない。マルシュルートカは峡谷を抜けていく。川が流れていて、心なしか瑞々しい感じがする。


 …と思ったら、カリホが隣のおばさんと何やら相談している。ロシア語なのでよく分からないので放っておいたら、突然「おい、リンタ、今晩はこの人の家に泊めてもらうことになったから。1名10ドルな。」。別に驚きもしないが、まあ、この能力にはいつも感心する。なお、このおばさんはモスクワの縫製工場に6ヶ月間出稼ぎに行った帰りにダンナとグルジアで合流して久々の帰国をするようであった。モスクワから買って帰ってきたお土産を山のように抱えている。ちなみに、おばさんは非常に老けているように見えたのだが、実はカリホと同年齢であった。


 マルシュルートカはエレヴァン行きだったのだが、小生とカリホはそのおばさんの住む途中の街ヴァナゾールで下車する。当然、ダメダメーな感じが漂っていることは言うまでもない。我々は夫妻にくっ付いて街の少し外れまで行く。いつ建築したのか分からないアパートに案内される。アパート自体は小生が子供の頃、育った社宅に似ている。画一的で狭い安不精なアパートである。


 娘二人や近所のおばさん達がモスクワからの帰還を温かく迎える姿を見ていると、心温まるものを感じた。家に帰るとおばさんはモスクワからのお土産を娘達に分け与えている。どう考えてもイケてない玩具や人形、それにおばさんが働いていた縫製工場で作っていたと思われるラッパ・ズボン(に見えた)を嬉しそうに喜んでいる。…とここで気付いたのだが、この家庭ではお父さんの存在感がない。いつも、女性3人の隅で所在なげにしている。まあ、一般的に、娘しかいない家庭における父親というのは除け者にされる傾向にあるのは、日本でも同じである。仮に小生が結婚して娘2人になったら、間違いなく「洗濯はお父さんの下着とは別」とか、「お父さん汚いからあっち」とか、「お父さんの入った後の風呂は変な角質が浮いているから、お父さんは最後」とか言われ、家の隅に追いやられるのは確実である。しかし、それにしてもここのお父さんは存在感がなさ過ぎである。もしかしたら、下着が異常に臭いとか、身体から出る角質の量が並みじゃなくていつも風呂を汚す、とかいった理由で家族から排除されているのかもと想像したが、どうもそうではなさそうである。あの存在感のなさは何処から来るのかねー、とカリホと二人で思っていたのだが、とどのところ「失業している」ということに尽きる。かといって、大酒のみとか、乱暴者という感じでもなく、ただ単に職がなくて所在なげなのである。


 あと、気になったのが娘2人。妹(18歳)は母と似ており、比較的整った顔立ちなのだが、姉(20歳)はどう見ても小錦系というか、眉が以上に太く、中東テイストが強いのである。彼女だけ家族の誰とも似ていない。姉妹を並べても絶対にこれが姉妹だとは思えない。個人的には「隠された過去」があるのではないかと思ったが、そんなことはどうでもいい。勿論、姉妹とも学校を出た後、職がなくてブラブラしている。カリホと二人で「こういう純朴な若い女性がトラフィッキングに巻き込まれるんだよな。次第にエレヴァンに出て悪い世界に巻き込まれなければいいけどな。」と勝手に娘2人の将来を心配する。


 実際に泊まる家は知り合ったおばさんのお姉さんの家であった。案内されたアパートで落ち着く。我々が寝るベッドルームもきちんと整備されていたが、とどのところツインベッドで、何故か二つの枕の間にはハート型をしたクッションが置いてあった。クリスマスにカリホとツインベッドで、しかも二人の間にはハート型のクッション。ちょっと、いやかなり気持ち悪いものがあるが仕方ない。


 この日、夕食では歓待された。おばさんがモスクワから帰ってきた記念+珍客の来訪ということで、普段はきっと食べないと思われる肉料理がどんどん出てくる。勿論、ウォッカもどんどん出てくる。2人でたかが20ドルしか払わないのに悪いなあと思いながらも満喫した。


 ただ、この頃になるとインドネシアでの地震の話がテレビで流れるようになる。今、我々はこんな地球の果てにいるからいいものの、これがカリホと飲んでいる時に「バンダ・アチェーに行こう。」と合意していたら、自分達も巻き込まれていたかもしれないのである。「今、ここで地震が起こったら(10数年前にアルメニア北部のギュムリでも大地震があって、町が崩壊したらしい)、誰も俺達のことなんか同情してくれないよな。」とカリホと話す。