2004年夏にインド北部とデリー周辺を旅行した際の手記です。これからインドに行く方にとって参考になるようにしています。当時は外務省国際法局条約課課長補佐でした。

● 準備
 さて、インドである。何故、インドかと聞かれると困るのだが、何となくインドである。正月にチベットに行った余韻がまだ尾を引いているのかもしれない。まずはインドの中のチベット世界、ラダック地方を目指すことにした。ラダック地方といってもピンと来る人は少ないだろう。簡単に言うと「インドの山奥」である。正確にはジャンム・カシミール州に属していて、パキスタンとの係争地域に当たるのだが、パキスタンとは少し距離があるので危なくはないと思う。我が親元の外務省の危険情報も「十分注意してください。」に留まっている(し、そもそも、そんなことを気にしたりはしない。)。街を歩いていたら首を締められたりするマドリッドやNYに比すれば平和なものである。

 ちなみに小生はカレーが好きである。多分、三食カレーでも生きていける(これは今回の旅行で証明された。)。一時期、東京でエスニック料理と称してインド料理屋が流行ったが、やっぱりデート向きでないせいか、爆発的な勢いで広がったという感じではない。ちょっと残念である。間違ったフランス語で書いてあるメニューを平気で出す気取ったレストランや、小生の嫌いなタイプの人ばかりで賑わう(と思っている)フランス風カフェよりも遥かにイケてると思うのだが。やっぱり、デートの最終局面でチューをするにはやっぱりカレー臭くてはいけないのである。

 そんなことはともかく、インドと決めたからには準備をしなくてはいけない。まずはチケットである。これはマイレージを使うことにする。これまでのカードの使用や旅行等で貯めに貯めこんだスターアライアンスのマイレージが20万マイルもある。これを使わない手はない。ANAのデスクを通じて、バンコク経由デリー行きのタイ航空の往復を確保する。どうせそんなにマイレージを使う機会もないかと思って、贅沢にビジネスクラス(75000マイル分)なんかを予約したりする。パックパッカー並の旅行しかしないくせして偉そうなものであるが、まあ、そのあたりは御容赦願いたい。

 そして、査証取得である。今冬、チベット旅行をした際は査証取得を図らずもインチキしてしまい、出国時にちょっと冷や冷やしただけに慎重である。朝少し早起きをして、九段下のインド大使館に足を運ぶ。意外にインドに行く人は多いようで行列になっていた。受け取りは当日の17:00から可能だった。インド人らしくない迅速な手続である。ちょっと感心した。査証料1200円で6ヶ月のマルチ。

 あとはデリーからラダック地方の中心都市レーまで行くフライトの予約である。今回の旅行については色々考えたのだが、まずデリーからレーまでは飛行機で行って、暫くレー周辺をブラブラした後、陸路でレー→マナーリ(ヒマーチャル・プラデシュ州の避暑地)→デリーと戻ることにした(この選択は結論から言って非常に良かった。)。デリーからレーまではジェット・エアウェイズという会社が運航していて、日本にも代理店がある。インターネットでもwww.jetairways.com を通じて予約できるようであるが、チケットの受け取り等を考えれば、日本から行くのなら東京の虎ノ門にある代理店で購入したほうがいいと思う。小生は職場が近いこともあり、昼休みに代理店に赴く。片道で107ドル+手数料・税等10ドル程度だった。往復割引はない模様だったが、29歳以下には30%の割引があるようである。

 さて、旅行情報の入手であるが、小生は「旅行人」のサイトを活用した。玉石混交で当てにならないものもたくさん含まれているが、まあ、ある程度の雰囲気を感じておくには十分である。偶然の幸運ではあるが、旅行人で情報収集していた際、小生と同日のレー行きフライトに乗る予定の「たまぞー」さんと接点を持つことができた。結果から言うと非常にこれは幸運であった。現地でのコンタクトを約する。

 あとはロンリー・プラネットのインドヒマラヤ版を購入して、準備は終了である。


● 1日目(7月30日):成田→バンコク→デリー
 前日、相当遅くまで働いていたので、ちょっと体調的には辛いものがあるが、ともかく出発である。一旦、家を出てしまえば、あとは流れ作業である。特記事項もない。ビジネス・クラスでのうのうと楽をして成田→バンコク→デリーである。小生はスター・アライアンスのゴールド・メンバーなので、乗ると必ずチーフ・パーサーらしき人が「緒方様、いつも御利用ありがとうございます。」と挨拶に来てくれる。客の中でも最も身なりがみすぼらしいので、気の弱い小生は「実はこの人は『田舎モノのくせして』とか『タダ乗りのくせして』とか思っているのではないか。」とホントはとても気が引ける。

 デリーに着く。ここで重大な(いや、それ程でもないのだが)忘れ物に気付く。筆記具である。デリーの空港でいの一番に機内から出て、入国審査に臨もうとして書類を書こうと思ったらペンがない。「まあ、記入場所にペンの一本もあるだろう。」と思って行ったら、これまたないのである。周囲のインド人に「ペン貸して」と頼んだら、あっさりNoと断られてしまった。インド人は冷たい。そうこうするうちにどんどん他の客に追い抜かれ、小生はぽつねんとしていたら、最後に出てきたインド人のお婆さんが「ペンないの?貸そうか?」と言ってくれた。超感動である(ショボい)。即座に「ナマステ」と言って感謝したのだが、今、思い直せばこれは挨拶の言葉だった。ペンを貸して「こんにちは」と返事をする小生はただの変人に見えたかもしれないが、そんなことはどうでもいい。人間、感謝しようという真心が大切なのである。書類にささっと記入事項を書き込んで列に並ぶ。小生はすっかり最後尾である。折角、ビジネスだったのに、ここではその恩恵を全然被ることができなかった。

 空港には予め、連絡していた知り合いのコナキタさんが迎えに来てくれた。ありがたい。既に23:00を越えている。コナキタさんに2万ルピー程度(1ルピー=2.4円程度)を交換してもらう。全部100ルピー札なので札束がとんでもない量になる。


● 2日目(31日):デリー→レー
 デリーからレーに行くフライトはなんと朝の5:40発。結局、前の晩は2時間くらいしか寝られなかった。その前の晩もそれくらいしか寝てないから相当な強行軍である。しかし、何はともあれ国内線の空港に連れて行ってもらう。仕事があるコナキタさんには迷惑をかけてしまった。未明の早朝だというのにわっさわっさと人でごった返している。大体、途上国の空港でよく分からないのは、いつ何時でも得体の知れない、航空客とも出迎え客とも思えない人でごった返していることである。朝なのに変なものを売りつけてくる子供もいる。小生は「これは雑然とした空港を演出するための粋なエキストラ達である。」と勝手に思うことにしている。

 機内の込み具合は7割程度。機体が良かったことに加え、たかが1時間半程度のフライトなのに機内食が充実していた。ジェット・エアウェイズは立派である。客は意外に欧米人、特にフランス人やイタリア人が多かった。日本ではそんなにメジャーな旅行先ではないが、欧米人にとってはゆっくり観光するいいスポットの一つなのだろう。あと、シンガポール人とか、韓国人も非常に多かった。この旅行中、韓国人の姿が非常に目立ったのが印象的であった。小生は何度も「アンニョン・ハセヨ」と話し掛けられたので、対抗心から「謝謝」と答えてあげることにしていた。

 このフライトは見晴らしがいいのでお勧めである。ヒマラヤの山並みを機内から見ると、すっかりそこは「Moon Land(ラダックはそう呼ばれているらしい。)」である。気分も盛り上がってくる。

 レーに着く。既に3500メートル。涼しいが思ったほどは寒くない。レーの空港は、有り体に言えば軍用の空港のおまけみたいなものであった。やっぱり、カシミール情勢もあってか結構ものものしい。空港で「たまぞー」さんと出会う。たまぞーさんは元協力隊員でしっかりした方であった。心密かに「モヒカンとかにしている変なヤツだったらどうしよう。」と思っていただけに安心した。レーの空港で形式だけの外国人登録をする。空港からレーまでは固定価格で110ルピー。インドでは価格カルテルがそれなりにしっかりしているようで、こういうのはあまりネゴれる余地が少ない(勿論、10、20ルピーくらいは可能だろうが)。たまぞーさんと小生と変なフランス人3人でレーまで行く。フランス人は110ルピーでもブツブツ言っていた。一人22ルピーなんだからいいじゃんと思うのだが。

 レーの第一印象は、チベット地域とは言えインド・テイストがすっかり漂っていて、しかも、観光地化が甚だしいといったところか。チベット的なエキゾティックさというよりは、インドとチベットの融合という方が正しい。ただ、人種的にはモンゴロイドの影響がかなりある。我々と同じ顔つきをした人がたくさんいる。モンゴロイドから南インド系まで幅広い人種の人たちが住んでいる人種の坩堝的地域である。こうなると人種的アイデンティティとナショナル・アイデンティティとリージョナル・アイデンティティの差はかなり曖昧になる。そもそも、このラダックに住んでいる人たちは、自分達をインド人だと認識しているのかどうかは怪しいものである。この感覚は日本人には分かりにくい。

 レーではカルツーという少し市内から離れたところに宿を取る。レーは富士山並みの高さであるが、懸念された高山病の気配はまだ出てこない。しかし、高山病は着いて暫くたってからが危ないのである。一応、最低限の用心はする。

 さて、まだ朝8時である。小生はレー滞在期間が短いので早速レー市内観光である。連日2時間くらいしか寝ていないのに元気である。ただ、普通の人は高山病もあるのでこういう強行軍は止めたほうがいい(しかし、寝るのもよくないらしい。身体の新陳代謝を維持するため起きてある程度は活動したほうがいいようである。)。レーのど真ん中にあるレー・ジョカンに行く。これは中国チベットのラサにあるジョカン(精神的中心地のようなお寺)を模したものだろうと思う。チベットのジョカンに比較すると圧倒的にショボい。メインの見所とはいえないだろう。

 その後、レー王宮に登る。ラサのポタラ宮のモデルになったと言われる王宮である。しかし、ポタラとは比較にならない(くらい大したことがない)。ただ、中国化甚だしいポタラ及びその周辺と比較するとたしかに古きよきチベット文化を体現しているのも事実である。ここはレー市内の高台にあるので、登るのは結構大変なのである。寝不足+高山病のおそれがあるにもかかわらず、観光客マインド丸出しで登る。荒涼とした風景の中に緑豊かなレーの街が広がる。これだけでもお勧めポイントである。



 ここで気付いたのだが、レーのチベット関係寺院等ではろうそくは市販の植物油で燃やしていた。中国チベットでは巡礼者が持ってきた油(これも市販だが)がろうそくの燃料となっていたのだが、そもそも、ここには巡礼者なるものが殆どいない。したがって、ろうそくの燃料は寺院側の負担である。中国チベタンは信心深かったよなあと思う。入場料50ルピー(高い)。

 その後、レー王宮の隣にある寺院ナムギュル・ツェモに登る。これはレー王宮よりも高いところにある。車でも登っていけるようであるが、小生とたまぞーさんは二人で果敢にも急な坂を歩きで登る。今、思うに相当無理があったと思う。多分、200メートル以上の急な道をスコスコ歩いて登るのである。さすがに息が切れた。繰り返しになるが、寝不足+高山病のおそれがある中、こんなことをしてはいけない。なお、ナムギュル・ツェモ自体は大したことがなかったが、あんなところに寺院を作る労力を考えるだけでも大変である。たしか、入場料20ルピー。



 レー王宮とナムギュル・ツェモでは日本から来た御老人達のツアーの人たちがいた。きっと、秘境ツアー専門の会社が「インドのチベット地域を巡る旅10日間 60万円~」みたいな暴利ツアーを組んでいるのだろう。日本の秘境ツアーは何であんなに高いのか不思議で仕方がない。それはともかくとして、小生が途上国でいつも思うのは、日本人の御老人達のツアーで元気なのは例外なく御夫人達の方である。お父さん達は「半ば、おまけとして付き合わされている」感じがする。御夫人達は、ダンナが働いている間は比較的抑制気味の人生だったのが、ダンナが退職するや否や、エネルギーが解放されているように見える。それはそれはエネルギッシュである。「ほら、お父さん、こっちこっち。」という声が聞こえてきそうである。かたやお父さん達は退職と共に燃え尽きてしまい、家でもすっかり濡れ落ち葉族。ヨメのイニシァティブで連れてこられたインドの山奥で「なんで、こんなとこに来たのやら。」とばかりに不平を言っている。うーん、日本社会の縮図だ。30年後、家でごろごろしていたら、箒で掃かれて邪魔者扱いされてしまう自分の姿を想像する。


 ところで、小生はこの旅行にアフガニスタンで買ったカラコリという名前の帽子を持っていっていた。簡単に説明すると、アフガニスタンのカルザイ大統領が被っている帽子である。アフガニスタンに出張した際、1つ20ドルで買ったものである。子羊の毛皮だけを使って作ったものだから良質のものである。あれを被ったカルザイ大統領は米国でベスト・ドレッサー賞を貰っていたから、小生もこれを被ればきっとイケてるに違いないと思って、レーの街中を歩いていると、街で結構な注目を浴びる。しまいには、街のおじさんからは「おまえ、インドネシア人か?」と聞かれた。「こんな顔したインドネシア人がいてたまるか!!」と内心ちょっと憤慨したのであるが、実は中国のカシュガルでもインドネシア人に間違われたことがある。まあ、醸し出す雰囲気がイスラムっぽかったということなのだろう。顔が濃いのも良し悪しである。

 この日はさすがにこれ以上は無理だったので、次の日からの観光アレンジをしてあとはゆっくりすることにした。レー市内のDreamLandというエージェントでアレンジ。掛け値なしに良心的な旅行会社だった(www.dreamladakh.com )。8月1~3日までの旅行(下記参照)で纏めて6835ルピー。小生はたまぞーさんと二人でシェアだったから3500ルピー程度の負担だったが、車は4人乗れるので、上手く4人見つけることが出来ればその場合は1700ルピー程度でよくなる。現地の物価からいうと高いが、日本ではちょっと気の利いた店で飲んでいればその○倍も取られかねないので、まあ大した事はない。

 夜は8時には寝るしかなくなる。レーには電気があまり来ていないので、夜は真っ暗である。高山病対策として、水を大量に飲んで寝る。


● 3日目(8月1日):リキル・ゴンパ、リゾン・ゴンパ、アルチ・ゴンパ
 今日からゴンパ(チベット寺)巡りである。高山病も殆どない。相変わらず元気である。今日は上ラダックの3つのゴンパを目指す。

 レーの街中を出ると、インド軍の存在を常に感じた。至る所にインド軍の駐屯地のようなものがあるのである。まあ、10億人いる国だから、兵士の数も多いのであろうが、それにしても異常なまでの軍のプレゼンスである。やっぱり、パキスタンや中国との係争地域と近いんだということを感じた。きっと、パキスタンと有事が起こるとこの地域にも緊迫感が漂うのだろう。


 各ゴンパの説明については、あまり知見がないので避けることとして、気付いた点を2点だけ。ちなみにどのゴンパも20~30ルピー程度。




(1) 中国との比較
 中国チベットとラダック地方のチベット文化圏の遺跡、史跡は大体、下記のような違いがあると思う。
* 建築物や仏像等は中国チベットの方が本家本元だけあって立派。ラダック地方は所詮、亜流である。ゴンパの規模、装飾等、中国チベットの方がダントツで上である。
* ただ、中国のほうは著しい文化抑圧政策のためか、非常に中国化が進んでいる。「ナマ」のチベット文化がどれくらい残っているかということになると、ラダック地方の方に軍配が上がるだろう。しかしながら、インドは既に仏教文化の国ではないので、インドにおけるチベット仏教の存在自体が異質な感じがする。
* 中国チベットには巡礼者がたくさんいるが、ラダック地方にはあまりいない。ラダック地方で五体投地をしている人はまず見かけない。そもそも、ラダック地方自体がチベット世界の中で亜流なので、巡礼の対象はほぼすべて中国チベット側にある(勿論、ダライラマ14世がいるダラムサラには巡礼者が多いらしいが。)。
* チベット文化が全体として伸び伸びとしているのはラダック地方。ただ、手抜きの仕方も伸び伸びしている(笑)。中国チベットは抑圧される中、ストイックに生きている感じがする。
* 当然ではあるが、ラダックではダライラマ14世の写真をよく見た。中国チベットでは、少なくともおおっぴらに見ることはできない(が、シッキム地方から入ってきているらしい。)。


(2) マナーの悪い外国人
 これは私の経験では、イタリア人がダントツである。フラッシュ駄目ですよと書いてある寺院内でも平気でバシャバシャとフラッシュをたく。しかも、大声でうるさい。それはそれはけしからんのである。大体、イタリア人は世界中何処でもそうで、昔、行ったタンザニアのサファリでも、ガイドから「空に飛んでいるハゲタカが襲ってくるから、外では食べ物を食べないように。」と指示があったにもかかわらず、イタリア人グループは外でサンドイッチ・パーティーをやっていた。まあ、その時は案の定、サンドイッチを持っている手にハゲタカが襲ってきて大怪我をしていたので良い教訓になっただろうが。ともかく、「旅行先ではマナーが悪い」ということに関してはイタリア人の右に出るものはいない。


● 4日目(2日):レー→パンゴン・ツォ
 さて、今日から2日間はパンゴン・ツォへの旅である。ツォというのはチベット語で湖を意味するので「パンゴン湖」ということである。レーの周辺にはパンゴン・ツォとツォ・モリリという2つのメジャーな湖がある。どちらかと言えば、観光客にメジャーなのは野鳥の集まるツォ・モリリなのだが、同地に行くには2泊3日かかると言われたのでパンゴン・ツォにする。あと、パンゴン・ツォが少なくとも日本人にメジャーでないことの理由に、中国との係争地域アクサイチンからすぐのところで戦略的重要地域だということもあって、かつては中国人(含台湾人)、韓国人及び日本人は入域が禁じられていたということもあると言われた(しかし、古い日本のガイドにもパンゴン・ツォは載っているからこれがどれくらい真実かは知らない。)。旅行会社のお兄さんは「ツォ・モリリよりもパンゴン・ツォの方が綺麗だ。」と言っていた。

 タタのジープに乗って、レーを出発。タタの車といえば「安かろう、悪かろう」というイメージだが、最近はタタがF1に進出していることからも分かるように機能も改善されているようで、日本のランクルやパジェロにはかなわないものの乗り心地は悪くない。レーから暫く行って、幹線道路から離れる。どんどん高度を上げる。道は比較的整備されている。インド軍が整備しているとのことであった。観光ごときでこんな僻地に道路を整備するはずもなく、やはり係争地域へのアクセスという観点から軍が道路を整備するのである。軍事関係のプライオリティが高いことを改めて感じた。もう少し真面目にこの地域の道路整備状況について説明すると、現在、パンゴン・ツォもヌブラ(カシミール方面に繋がる秘境地域)も5500メートル地点を越えないと行けないため、冬は殆どアクセスできない状態にあるようのだが、今、インド軍が別の道を建設中で、そのルートを通ると4000メートル程度のところを通ってヌブラ、パンゴン・ツォに行けるようになるので、冬でもこれらの地域に行きやすくなるとのこと。やはり、インド軍は着々とカシミール地方の輸送手段を整備しているようであった。まあ、冬のラダックはそれはそれで趣があると思うので(気温はマイナス30度近くまで下がるらしいが)、こうやっていろいろと回れるようになるのは観光業界にとってもメリットがあるのだろう。


 しかも、中印関係の改善に伴い、ラダック地方での中印国境が近い内に(運ちゃんは2年内と言っていた。)解禁になるという話もあるようだ。「そうすれば、カイラス(チベット仏教の聖山で中国側西チベットにある。)も印から行くのが便利になる。」という期待感を語っていた。そもそも、中国側のカイラス周辺は非開放地域なので、国境解禁に伴いおいそれと観光客がカイラスやグゲ遺跡(西チベットの有名な遺跡で風の谷のナウシカっぽい風景が広がるらしい)に行きやすくなるかどうかは不明なのだが、レーの旅行会社の間ではそういう話が出始めているようである。たしかに、中国側西チベットでは道路整備が進んでおらず、しかも、ラサからカイラスへは距離があって、印側から行けるようになればそのほうが遥かに便利なのは事実である。小生もいつかはカイラスに行ってみたいと思うのだが、如何せん今の状況ではラサ経由で3週間以上はかかるので無理である。

 まあ、そういう難しい話はともかく、車は高度をさらに上げる。既に5000メートルを越える。さすがにここまで来ると高山病による頭痛は避けられない。高山病を経験したことのない人に説明すると、これは「プロフェッサー・ギルに笛を吹かれた時のキカイダー」を想像してもらえればいい(ちょっと世代が古いか)。メールでは音声が出ないので正確な描写は出来ないが「ぷーぷーぷー、ぷぷぷー、ぷーぷーぷーぷぷぷぷー」というあの不気味な笛の音が頭で鳴る感覚である(すっかり意味不明だが、小生の中ではしっかり連関性がある。)。ともかく、脳が腫れたような痛さである。しかも、小生はキカイダーのように変身できないので、身体の新陳代謝を高めるべくとりあえず水をガブガブ飲んで尿として出すくらいしか対処方法はない。そんな中、運転手のお兄さんは平気で運転している。やっぱり、心肺機能の違いは否めないと思う。

 道も整備されていて、そこを通る車の大半は心肺機能の高い現地の人が運転するのだが、それでも交通事故は絶えないようである。よく考え直してみれば、幅が10メートルくらいしかない狭い道であり、しかも、片方は急な崖である。場所によっては崖崩れを起こしかかっているところもある。これで下に落ちたら間違いなく死ぬ。そういうこともあり、道端には安全運転を促す標語が時々掲げられている。この標語、結構ウィットが効いていて面白いのである。小生が気に入った2つの標語を紹介すると「If married, divorce speed.(結婚しているなら、スピードとはお別れしなさい。)」と「Be Mr. Late rather than Late Mr.((スピードを出し過ぎて)「故人」になるよりも「ゆっくりさん」になりなさい。)」である。前者はmarryとdivorceという対の言葉を上手く引っ掛けており、後者は「遅い」と「故」という意味を持つlateという単語を巧みに使っている。インド人、なかなかやるなと変なところで感心する。


 そんなこんなで、車は最高地点チャン・ラ(5600メートル)にまで登り詰める。チベット語で「ラ」は峠を意味するのでチャン峠である。5600メートルというと、一般の日本人の限界を遥かに超えている。柔道二段とか、(自称)へそ曲がり五段とか、様々な資格を有する小生をもってしても、もうぐったりである。この地点からさらに3000メートル以上高いチョモランマに無酸素で登頂しようとするなど、仮に小生がへそ曲がり名人に昇進したとしても無理である。ただ、この付近から見える景色は正に絶景である。広大な枯れた大地が眼前に広がるこの風景は一見に絶対に値する。値するのだが、実際には頭痛であまり満喫することもできず、運ちゃんに「早く高度を下げよう。」と言わざるを得ない。ちょっと残念である。



 チャン・ラを越えると、あとは4000メートルくらいの山間の道を抜けていく。意外に軍のチェックポイントが多い。軍が訓練している光景も何度か見た。ちなみにパンゴン・ツォは入域許可証が必要で、各チェック・ポイントでパスポートと入域許可証を見せなくてはいけない。長閑な風景でありつつも、係争地域なんだなということを強く認識する。

 今晩はパンゴン・ツォまであと15キロくらいのところにあるテント村に泊まることにする。夏の間だけ開いているテント村のようである。レーから150キロくらい走ってきたのでさすがに疲れは否めない。テントといってもきちんとベッドはあるので、寝袋さえあれば普通に過ごせる地域である。食事付き(悪くない)で300ルピー。まあ、そんなもんだろう。


 テント村は満員に近い状態であった。なんでも、ボリウッド(ボンベイにあるインド映画の中心地。ハリウッドを模してボリウッドと呼ばれる。)の250名がパンゴン・ツォでの撮影のために来ているとのことである。何もこんなところまで来て撮影しなくてもいいのにと思うのだが、とにもかくにもテント村は大盛況であった。ただ、インド映画に付き物の、濃い顔をしたにしきのあきら的スター俳優と美人(なんだけどお腹がちょっと出た)女優は見かけなかった(これについては後述)。


 ともかく、ここも夜は早いのでさっさと水を飲んで寝る。夜は思ったほど寒くない。


● 5日目(3日):パンゴン・ツォ→途中、ゴンパ巡り→レー
 朝、ちょっと早起きをして、パンゴン・ツォに向かう。残念ながらあまり天気がよくない。天気がよければ湖の色が綺麗らしいのだが、ちょっと残念である。パンゴン・ツォは太陽の光の当たり方によって色が変わって、それはそれは幻想的な風景らしいのだが、今回は曇天で湖の色は普通だった。それでもパンゴン・ツォは綺麗である。6000メートル級の山に囲まれて、厳かに湖が広がっている。ラダックに行く機会があったら、是非、パンゴン・ツォまで足を伸ばしてほしい。

 この湖、幅は5キロくらいなのだが、長さが150キロ近くあるらしい。しかも、その3/4は中国領(含、中国領有の係争地域)である。1962年の中印国境紛争の時は中国軍が相当、奥深くまで攻め込んできたのをインド軍が何とかかんとか跳ね返して今のような線引きになっている。中国軍は押し返される際にあちこち地雷を埋設していったらしく、幾つかの地域は地雷汚染地域として入れなくなっていた。勿論、インドはパンゴン・ツォの中国部分の一部について領有を主張しているので、その部分は係争地域ということになる。パンゴン・ツォにはインドの水上警備隊が配属されており、イタリアから購入した2隻の警備船で定期的にパトロールしているようであった。ここで中印間の国境紛争について説明すると、大まかに分けて3つある。インド東部のアルナチュル・プラデシュ州、シッキム地方(この2つはインド領有)及びインド北部のアクサイチン(これは中国領有)である。細かなことは書かないが、いずれもそんなに簡単に解決するはずもない問題ばかりである。そのあたりに住んでいるのは、漢族でも(我々が認識するところの)インド人でもなく、歴史的にチベット文化を育んだ人たちなのだが、両大国の間に挟まれて完全に翻弄されている。そんなチベタンの悲哀を感じずにはいられない。そうやって考えると、両大国の間で独立を維持するネパール、ブータンというのは立派だなと思ったりもする。歴史の流れが少しでも違っていれば、この2つの国なんか、今ごろ、インド又は中国領でも全然おかしくないのである。

 そんな深遠なことを考えながら、パンゴン・ツォを眺める。運ちゃんが「あのあたりはもう中国だ。」と説明してくれる。ここで誤解なきようにしておくと、中国領だからといって、特段何が違うということはない。中国領に入ると、いきなりゼンジー北京のような怪しいおやじが突然現れて、インチキ臭い秘術を披露してくれたりするということでは決してない。あくまでも険しい山が広がる中で国境線がそこに引かれているというだけで、そこには同じチベット民族が住んでいるのである。


 パンゴン・ツォでは、昨日、テント村で見たボリウッドの一行が撮影をしていた。普通ならあまり近寄れないのだろうが、先方の御厚意で現場を見せてもらうことが出来た。映画の名前は「The Fall」で、来年封切りだといっていた。ただ、映画の内容を聞いてみると、「木の洞から生まれた神秘的な男が繰り広げるアクションもの」ということで、どう考えても売れそうには聞こえない。我々が行ったときには、正に主人公(英国系)が出生のシーンを撮っていたようで、主人公役のお兄さんが木の洞に入っているところだった。その姿だけでも小生の目には「ヒットしないんじゃないか、これ。」と写ったが、最近のボリウッドはCG等の技術も取り入れてレベルが上がっているのでどう仕上がるかが楽しみである。とてつもなくお馬鹿さん映画に仕上がってヒットするかもしれない。きっと、日本で封切られることはないだろうが。


 パンゴン・ツォからの帰途は昨日と同じルート。ちょっと気が重い。やっぱり、チャン・ラでは頭痛がした。ここで相棒のたまぞーさんの調子が少し悪くなる。高山病に加えて、車酔いまで併発し始めている。傍目に見ても、相当気分が悪そうである。帰路ではタクトク・ゴンパ、チェムレ・ゴンパ、ヘミス・ゴンパ、ティクセ・ゴンパ及びシェイ・ゴンパの5つを見て帰るつもりであったが、小生も調子があまり冴えず、しかも、相棒までが調子を悪くしているので、程々にしてレーに帰る(まあ、それでもそれなりにゴンパを見物してきたが)。既に十分無理をしているので、これ以上の無理は禁物である。上記の5つのゴンパは、それぞれ趣があるのでゆっくりとしたスケジュールで見物することをお勧めしたい。レーには午後5時頃に戻る。


 さて、小生は4日レー発でマナーリという街までバスで行くことを予定しており、そのチケットの予約を旅行会社にお願いしていたのだが、レーに帰ってきて聞いてみると、4日はレー発のバスはないらしく、相乗りジープでの旅行を予約してくれていた。しかし、何と出発が午前2時。もうあと、7~8時間したら、またジープで480キロの長旅である。少し休みたかったのでちょっとげんなりするが、時間の限られた旅行者で、6日までにはデリーに戻りたかったので仕方ないと諦める。ちなみに相乗りジープは意外にお安かった。ガイドを読むと、レー~マナーリ間のジープは1台16000ルピーと書いてあるのだが、このジープ旅行は前席1200ルピー、後部座席1100ルピー(但し、後部座席の真中の席は900ルピー)、荷物席800ルピーと結構お安い。デラックス・バスが800ルピーなので、殆ど同じである。出発までの時間は寝ておかないと疲れるので、宿を取って寝る。ここでたまぞーさんとはお別れである。あまり、上記でたまぞーさんについては色々と書かなかったが、レーでの旅が楽しく過ごせたのは良き相棒がいたおかげである。


((その2)に続く)