2003年末から2004年正月にかけて、チベットからネパールにかけて旅行した際の旅行記です。なお、当時は外務省経済局国際機関第一課課長補佐でしたので、その前提でお読み下さい。

● 1日目(12月25日):東京→西寧
 前の日、結構夜遅くまで働いたので朝はネムネム君だったが、これから念願のチベット旅行である。気分は高まる。ただ、一日目は何事もなく、普通に飛行機に乗って移動。査証なしで入国できるのはありがたい(しかし、この勘違いが後で問題に。)。西寧には成田→アモイ→広州を経由してから入った。空港から市内までバスが走っており、小生は(きっとボラれて)16元も取られた。西寧駅近くの郵政賓館のドミトリーに泊まる(14元)(1元=13円くらい)。


● 2日目(26日):西寧→ゴルムド
 西寧市の段階で既に超寒かった。それなりに装備は整えてきたつもりだったが、それでも準備状況が安易だったことを認識。まずは足を洗って、身体を拭いて街中に出る。

 西寧市は回族の影響が強い。街にも清真飯店(イスラム飯屋)が多かった。今、思い直せば既にチベットの雰囲気を少し醸し出していた。

 まずは駅の周辺に居る「ラサ、ラサ」と叫んでいる親父の一人に声をかけて、ゴルムド経由でラサまでのバスを確保(したつもりだった)。西寧駅前には冬でもゴルムド行き、又はゴルムド経由ラサ行きのバスがたくさん客引きをしているので、その点は特に困らないだろう。小生が声をかけた親父は「ゴルムド→ラサまでのバス料金はゴルムドで払ってくれ。」と説明してくれたので、それを間に受ける。ゴルムド→ラサ間700キロで100元(これもかなりボラれているはず)。ちなみにゴルムドとは簡単に言うとチベットへの入り口のような小さな街で、普通陸路でチベットに入る人はここの街を経由する必要がある(成都からラサは非開放地域を通るので非合法)。西寧~ゴルムドはバスと列車の2方法がある。いずれゴルムド~ラサの青蔵鉄道(青海省と西蔵(チベット)を結ぶので青蔵鉄道)が出来るようになれば、西寧(もっと手前の西安)あたりからラサまで直通で行けるようなこともあるかもしれない。

 13時頃、西寧を出る。バスは寝台車だが、勿論暖房などあるはずもない。ココノール(青海湖)を臨みながら、バスは進む。途中、一度食事のための停車。ココノールのほとりで食べるチベット風の麺が美味しかった。その後はひたすら闇の中を行く。夜、足の下から入ってくる冷気がとても、とても辛く、ほとんど寝られなかったのを今でも思い出す。既にそんじょそこらの寒さではなかった。陸路のチベット行きを軽く見ていたようだ。


● 3日目(27日):ゴルムド→ラサ
 3日目の朝04:00頃ゴルムド着。ゴルムド着後、どんどん客が降りていくので、小生は「俺はどうなるのだ。」と不安に。すると、バスの運ちゃん(どうでもいいが、とある役所の同期にそっくりだった)が「おまえ、ちょっと。」みたいな感じで小生を呼ぶ。「何だろうか。」と思っていくと、「おまえはラサまでのチケットを持っていない。しかも、外国人だと公安に捕まって、迷惑だからここで降りろ。」と言われる(注:正規にはCITSという旅行社のバスを利用する必要があるが、料金が高いので(下記参照)小生は普通の中国人用バスで非正規の方法を選ぶことにしていた。)。「おい、ちょっと待て、約束が違うじゃないか。」と思って反論するが、中国語が全くできないのでほぼ泣き寝入り状態。しかも、寒さで足がブルブル震えている(とっても辛かったのを思い出す)。バスは完全に止まり、客は4名くらいしか残ってない。多分、彼らはこのままラサまで行くチケットを持っているのだろう。ここで小生はあれこれと考える。しかし、考える前に、お腹を壊してしまってグルグルいっている。とりあえず、運ちゃんに反論する前に外で用を足す。ゴルムドの街の外れ、朝05:00頃だっただろうか。「こんなところで極寒の朝焼けの中、用を足す俺って。」と思う。その後、再度、気合を入れ直して、何とかラサまで連れて行けと交渉に臨む。すると、運ちゃんは「あー、うるさい、うるさい。とりあえずバスの中で寝てろ。」と一方的に指示。仕方ないので、小生はバスの中で寝る(バスはゴルムド市の何処かに停車していたが、それが何処かは分からず。)。

 朝も白んできた頃、運ちゃんが「おまえ、ちょっと来い。」と小生を呼びつける。訝しげに運ちゃんのところに行くと、「ラサまで800元。嫌なら降りろ。」と言われる。相場の倍以上なので「何だとー、このヤロー。」と思ったが、いかんせん立場は弱い。朝07:00のマイナス5度近いゴルムド市のわけの分からないところで解放されても辛いだけなので(暫く粘ったが足元を完全に見られて)、最終的に800元で折り合うことにする。ちなみに中国人は正規で180元。闇だと120元くらいで乗るらしい。しかも、冬で客も少ない時期だったので、運ちゃんは「チベタンなら50元でも乗せる。」と言っていたようである。日本人はホントに根気強く粘れば300元までは値切れる由。中国語が相当達者なら中国人価格でも乗れるようである。

 すると、突然、運ちゃんは優しくなり(笑)「出発まで俺の親戚の家で休んでろ。」と小生を近くの家に案内。回族風の麺と茶を振舞われ落ち着く。調子の悪いお腹もようやく一段落。自分自身の中では「まあ、これも込みで800元ということにしよう。」と自分自身を納得させることにした。近くの清真寺(イスラムモスク)をブラブラ回る。


(おもむろにクイズ)
これは何でしょう。チベットではよく見るものです。
 


 12:00頃、バスまで案内される。バスは西寧-ゴルムド間のそれとは別のものになっていた。何はともあれ、ようやくバスを確保した安心感で一杯。と言っても、これは正規のバスではないので安心しすぎてはいけない(ちなみに正規のバスは普通のバスと大して装備も変わらないのに2000元以上するらしい。)。隣には韓国人のお姉さん。最低限の英語と中国語ができるので頼れる。これも安心材料。ラサまで1200キロの旅に出発する。


 ゴルムドを出て1時間くらいで、突然、停車して、運ちゃんが「おい、そこの2人ちょっと来い。」と小生と韓国人のお姉さんを呼ぶ。何でも公安のチェック・ポイントがあるので、その間だけ荷物のトランクに入ってろと言われる。「まあ、仕方ないか。正規じゃないしな。」と思って、荷物と一緒にトランクに入れられる。見つかったらゴルムドにバスごと強制送還なのでまずいかなあと思ったが、特に見つかることもなくチェック・ポイントを抜ける。暫くして、バスは止まり、また、自分の席に戻る。冬だったせいか、チェック・ポイントはこの1箇所だけだった。夏はきっともっと何度も公安のチェックが入るのだろう。

 その後はひたすらアムド(地方名)の大地を抜ける。時折、チベタンが居るのを除けば、何もないアムドの荒野と崑崙山脈が広がっている。道路と並行して西部大開発の目玉、ゴルムドとラサを結ぶ青蔵鉄道の工事現場が見える。こんなところによく鉄道なんか敷くものだと感心する。目測では工事は4割方終わっていると思った。

 夜になる。バスは止まらない。このバスはどうも夕食のためには止まらないみたいだということに気付く(そもそも、そういう飯店が路中に少ない。)。お腹がすいてくる。それは西寧で買ったビスケットでごまかす。こんなに一片のビスケットをありがたく感じたことはなかった。腹は収まったが、今度は高山病と寒さである。よく考えてみれば、ゴルムド-ラサ間は5000㍍を越える地域を通っているのである(最高地点はタン・ラの5206㍍)。頭痛がする。水をひたすら飲む。何でも人民解放軍は高山病対策には新陳代謝を高めるために水を飲んだらしい。飲んだ水分の身体への吸収を高めるためペット・ボトルの水に予め持ってきていたポカリ・スエットの粉末を入れて飲む。効果があったのかどうかは知らないが、自ずと尿意を催す。しかし、尿意を催すのは小生だけなので、そう主張しないとバスを止めてはくれない。運ちゃんに「toiletだ、toilet。」と主張する。全然通じない。仕方ないから、ボディ・ランゲージと共に「シーだよ、シー。」と日本語で説明したら、どうやら通じたらしく止めてくれた。外国でも日本語で話し掛けているおばさんの気分が分かった。もう30歳になるのに、こんなことをしている自分がいじらしい。

 ということで、小生は殆ど寝れなかった。しかし、周囲のチベタンは総じて元気である。ただ、チベタンは車に乗りなれていないので、すぐに車酔いをする。彼らは車を止めて吐いたりはせず、バスの窓から豪快に吐いている。小生の座っている横の窓に吐き出したものの跡が線を引いていた。

● 4日目(28日):遂にラサに到着
 朝05:00、ラサに着く。ガイドにはゴルムド・ラサ間は30時間とか、ひどいケースでは50時間とか書いてあったが、小生の乗ったバスは17時間くらいで着いた。近年、バスの機能が上がっているので、変なのに乗らない限りはそれくらいで行けるということである。少し高度が下がってきたので頭痛は収まる。ラサの街は意外に発展している印象あり。ここまで来るに至った苦労を思うと結構、感動した。ラサではヤク・ホテルというところに向かう。有名なパック・パッカー用の宿らしい。「日本人達が入っているドミトリーが1泊20元。」と言われたので、そこに入る。そこには5人の日本人が。成都からトラックの荷台に乗ってラサまで来たつわものどもだ。その後のことを考えれば、彼らと知己を得られたのは幸運だったとしか言いようがない。とりあえず寝る。これまで寒さと高山病で寝れなかったから、温かい布団で寝ることができる自分が嬉しい。

 昼頃起きる。街の中心ジョカン(チベットの精神的中心地らしい)の周辺バルコルを回ったりしてみる。率直な感想は「期待したほど、エキゾティックな感じはしない。」というところ。中国資本が入っていて、ハイアール(中国の家電メーカー)の冷蔵庫も東芝の音響機器も売っている。街中にはインターネット・カフェもたくさんある。また、それ程多くはないが西欧風スーパーマーケットもある。食べたければ、西欧風のケーキもある。街は中国式に発展していて、チベタンは既にマイノリティ。しまいにはランクルを乗り回す不良チベタン坊主もいるくらいである。「こんなんじゃ、チベット独立運動なんて夢のまた夢。」という思いを強くする。これで青蔵鉄道なんかできようものなら、最後の一撃になるだろう。多分、チベタンは青蔵鉄道を歓迎していないはずである。


 高山病をすっかり克服したので、午後は同部屋の小笹さんと一緒に街の西方デブン寺に行く。はっきり言って、チベット仏教のことは全く分からないが有名な寺らしい。ここの巨大タンカ(仏画)開帳は有名らしいと聞いた。主要路からバスを降りて歩く。なだからな坂道の割には結構、息が切れる。さすがはチベット、空気が薄い。平地ならなんでもない坂道が非常に辛い。何度も呼吸を整えるために足が止まる。昼下がりだったせいか、デブン寺には人がいない。本当なら入場料とか取られるのだろうが、それもパスして入る。寺の中にはお坊さんが一人だけいて、案内役を買ってくれる。観光客ずれしていない良い坊さんだった。デブン寺の中は可能ならここで説明したいのだが、立派だということ、一つの街を構成しうるくらい大きいということ以外はよく分からなかったので止めておく(笑)。お坊さんにはお布施として10元を渡す。


 夜は部屋の友人達と飯を食いながら痛飲。酔いの回るのが早い。費用対効果が非常に良い。ぐっすり寝れた。

● 5日目(29日):セラ寺観光
 部屋の友人数名とラサの北部にあるセラ寺に行く。セラ寺の良さは上手く書けないので省略。セラ寺は50元と言われたが、値切って35元。結構、高い。


 ちなみに、セラ寺の近くで鳥葬をやっているところがある。ラサで鳥葬というと1000元くらいでツアーがあるが、そんなことをしなくてもセラ寺付近の鳥葬所で見てくればいい。往復5元である。ただ、写真は撮ってはいけない。何と言っても、死んだ人を斧でミンチ・ボールにして、鳥の食用に供するのである。最低限の慎みはもちたいものである。鳥葬は「魂を自然に返すため」とかいう人もいるが、そもそもチベット仏教では魂は死んだ段階で何処かに行ってしまうので、それは間違いらしい。実際はもっと単純で、死体の処理上の理由らしい。中国政府は衛生上の問題から鳥葬は止めなさいと言っているようであるが、そんな簡単に伝統葬儀の形式が変わるものではない。いずれにしても、見ていて気持ちのいいものではないらしい。

 このあたりでチベット寺のお作法を。すべて時計回り、これに尽きる。そうやって回ることをコルラというらしい。あらゆる建物の巡礼は時計回りで回っていくのである。きっと、何らかの理由があるのだろうが、それは知らない。そうやって回っていくチベタンは1角(0.1元)とか5角(0.5元)とかをお賽銭で寺のあらゆるところに挟んでいく。きっと彼らにとっては馬鹿にならない金額なのに信仰心の厚さに感心する。お金のない人は寺のろうそくをともすためのバターを提供している。ろうそくがともされているお椀にバターを入れていくのである。昔からきっとそうやっていたのだろう。ただ、多くの人がバターを入れていくのでバター過剰状態になっているろうそくも多く、どの寺でもお坊さんが定期的にバターを捨てるオペレーションをやっていた。どの寺でもこのバター捨てオペレーションをやっているので、チベット全体では毎日、相当量のバターが捨てられていくはずである。なんか矛盾を感じたが、まあ、それはそれで皆が満足ならいいのだろう。ところで、昔はヤクのバターを使っていたのだが、いつの頃からか「もったいない」ということで工業品のバターを代用に使うようになったようである。インド、マレーシア産の植物用バターが使われていた。小生はお土産に一つ買ったのだが、未だに使わずに家に置いてある。何に使えるのかもよく分からない。

あと、出発前に多くの知り合いから「ダライ・ラマに会ってくれば?」と言われたが、これは日本人によくある誤解である。「ダライ・ラマは中国チベットにはいない。」のである。ダライ・ラマ14世は1959年にインドに亡命しており、通常はインド・カシミール地方のダラムサラという街にいる。今ではダライ・ラマ14世の写真は中国チベットでは御法度である。持っているだけで公安に捕まったりする模様だ。ただ、駄目と言われてもそんなことでチベタンの篤い信仰心を抑えることはできないようで、地方に行くと堂々とダライ・ラマ14世の写真を見たりする。何でもインド・シッキム地方(ここも中国との係争地域)からこっそりと輸入されてくるらしい。

 そろそろ、ラサからネパール行きの足を考えなくてはいけないなと思って、宿の掲示板を見ていたら「アメリカ人2名と日本人1名1月1日発で4日かけてネパール行き。あと1名募集。」というのを見つける。ちょうど日程とも合うので、そこのグループに加わることとした。アメリカ人のブライアンとジェレミーが全部アレンジしてくれていたツアーに加わるだけなので非常に楽だった。エベレスト・ベースキャンプに入域するためのパーミット(400元)も込みで3泊4日3400元(したがって、車だけで3000元)、一人850元、悪くない値段だった。正規の旅行社でアレンジすると同じルートで6000元は取られるらしい。なお、寄り道をせずにラサから国境までだと1泊2日で行けるようであった。

● 6日目(30日):ガンデン寺
 朝早起きして、部屋の大内さん、岡田さんとラサ市西部のガンデン寺に行く。これはゲルク派という宗派の総本山らしく有名である。ただ、かつてチベットの抵抗運動の中心地だったせいか、寺の中に公安の事務所があった。少し距離があるので、朝早くにラサを出て2時間かけて行くことになる。バスは往復で20元。ガンデン寺は山の奥深いところにある。一般的なルートとして、まず、到着するとガンデン寺のある山を1回コルラする。その後は大体自由行動で寺の中を見学する。ガンデン寺をコルラする時に見える風景は正に絶景である。冬の真っ只中、超寒かったが、朝早起きしていくだけの価値はあったと思う。是非、お勧めしたい。


 ただ、ガンデン寺に入場しようとしたら、突然、強欲坊主がそそっと寄ってきて入場料を払えと言う。周囲の外国人には入場料を求めていないのに、小生達のグループ3人だけに目をつけてしつこく払えと言う。「なんで、我々だけ払わされるの?」と抵抗したが、この強欲坊主はしつこい。無視しようとしたら腕を捕まれ排除された(笑)。仕方なく25元を払う。冷静に考えれば、入場料は払うべきものなのかもしれないが、それにしても不愉快な出来事であった。

 大体、ガンデン寺は朝06:00頃にジョカン前から出て、15:00くらいに戻ってくるという感じなので、一日かかる。

 ガンデン寺から戻ってきて、ラサ市内で買物。街中のあちこちで売っている冬虫夏草を購入。チベットの特産品で、簡単に言うと冬の間は単なる虫なのだが、夏になると虫に寄生した植物が生長し始めて、虫丸ごと草になってしまうというものである。効能は分からないのだが、新宿あたりで精力剤として頑張るお父さんのために販売されているのを見たことがある。小生自身は特に精力に問題を抱えているわけではないが面白半分で購入。ちっちゃな冬虫夏草8ピースくらいの箱が3つパッケージで90元、うーん高いんだか、安いんだか。帰国後、役所でポリポリ噛んだりして服用してみたが、あまり効果があったようにも思えない。

 その他にも曼荼羅のタンカとかも売っているのだが、まだまだ中国チベットでは技術が足らないせいか、この手のチベット仏教系土産はネパール産が多いようである。ただ、中国人がその技術をマスターして商用化を進めれば数年で全部この手のおみやげ物は中国製になるだろう。


● 7日目(31日):ジョカン、ポタラ宮殿
 ラサ滞在の最終日。部屋の友人は長く滞在する人が多いが、小生はしがない公務員なので見ておくべき観光地を急いで見ておかなくてはいけない。部屋の友人はその後、西チベットの聖なる山カイラス(チベット名:カン・リンポチェ)とかに行った人もいた。羨ましい限りである。カイラスはインド側からアクセスすると比較的容易なのだが、必ずしも良好ではない中印関係もあってそれが実現していない。中国側から行こうとすると、全行程で1ヶ月くらいはかかるらしい。いつの日か中印関係が大幅に改善したら行きたいと思う。

 朝早くジョカンに行く。まだ、夜が明ける前から多くのチベタンがジョカンに向かって、五体投地(身体を地面に投げ出すようにするお祈りの形式)をやっている。小生はすることもなく1時間半くらいブラブラしていたら、ジョカンの門が開いたので中に入る。朝、信徒に対して門を開くようである。したがって、朝に行けば無料。昼頃行くと多分30元くらいは取られるのだろう。中は...、まあ、チベタンには感動的なのかもしれないが、小生には他の寺と同じような仏像がたくさん並んでいたという印象しかない。ただ、ジョカンはチベットの中心であり、朝、無数の人が五体投地をしている姿を見るだけでも面白いので是非行ってみることを勧める。
jokan

 その後、ポタラ宮殿に行く。チベット自治区唯一のユネスコ世界遺産である。名君ダライ・ラマ5世の時に作られた宮殿でいわゆるお寺ではない。ラサで一番の目玉だろう。とは言っても、入場できるところは相当制限されている。決まったルートしか回れず、重要な宝物等は見せてくれないらしい。入場料が100元と高かった(!!)割には、狭い通路を観光客がゴミゴミしていたという印象しかない。しかも最上階に上がるには追加料金として10元。行くことを勧めるが、あまり多くを期待してはいけないような気もする。ポタラ宮殿は周囲から見ているのが一番である。


 その後、部屋の小笹さんと爆竹を買いに行く。ハッピー・ニューイヤーとしてジョカン前で爆竹を鳴らす、という企画のためである。そもそも、チベタンの精神的中心地ジョカンの前で深夜に爆竹を鳴らすというのが不遜な行為と受け止められる可能性もあったのだが(日本で言えば明治神宮前で爆竹を鳴らすようなものか)、そんなことを脇において、爆竹の品定め。直径50センチくらいはある巨大な爆竹を75元で購入。その夜は部屋の友人達と西欧風のピザ(チーズはヤク乳チーズか?)を食べた後、時間が過ぎるのを待つ。23:30くらいにジョカンに向かう。爆竹着火係は最年少の小笹さんである。時間を見計らって「3、2、1」で着火した......、その後はあまりよく覚えていないのだが5分間くらい、ジョカンの前で爽快に爆竹は鳴りつづけた。それはそれは爽快なひと時であった。爽快ではあったが、小生は公安に捕まって、身元が割れてもいけないのでこっそり隅に隠れてみていた(笑)。爆竹終了後、ジョカンに敬意を表して皆で五体投地。頭が悪すぎる(笑)。ちなみに公安のおじさんが寄ってきたが、言った一言は「ゴミは片付けろよ。」。アホの日本人の相手をするには眠かったようである。


● 8日目(1月1日):ラサ→ギャンツェ→シガツェ
 早朝、部屋の友人達と別れて、これからはアメリカ人ブライアン、ジェレミーと日本人中山さんとヒマラヤを越える旅である。車は旧型のパジェロ、運転手はチベタンのおやじである。早速、ラサを離れ、中尼公路(ラサからネパールに向かう道路)に入る。途中、ヤムドク湖を経て、昼過ぎにギャンツェの街に行く。この間、氷河や湖が広がっており、非常に綺麗な風景だったことを思い出す。ただ、ラサから離れると大半は非開放地域に当たるので、パーミットを持っていない我々は非合法ということになる。一応、公安の存在には注意しながら進む。


 ギャンツェでは城壁と城砦を巡る。細かくは書かないがなかなか見所のある街だったと思う。是非、お勧めしたい。

 その後、ギャンツェからシガツェに。シガツェはタシルンポ寺という有名な寺がある街で、それなりに地方の中心都市(小都市だが)程度の賑わいを見せていた。テンジン・ホテルに入る。25元。
ここで失敗したなぁと思ったのが、アメリカ人2名の存在。人柄は良いのだが、まずスーパーケチケチ旅行をやっているので、10元の飯でも躊躇う。しかも菜食主義者(veggy)。この中国で菜食主義でどうやって生きてきたのかよく分からないが、ともかく肉を食べないのである。したがって、夜になると廉価で野菜のみの食事を出すレストランを探すことを必ず求められた。これには結構泣けた。毛唐の人たちと旅行するのは大変である。とは言え、まだまだ普通のメシが食べられる地域だったので、野菜ばっかり食べているアメリカ人2名を横目に肉を食べる。

● 9日目(2日):シガツェ→サキャ→シェーカル(又はニュー・ティンリー)
 朝、タシルンポ寺をコルラした後、シガツェを離れる。その後、チベット仏教の中でも少し異端なサキャ派の中心地サキャを訪れる。サキャは中尼公路から少し外れるので、時間を節約するのであればルートから外しても良いと思われる。ただ、街全体が青色の壁でできた建物からなっていて少し異様な感じがするので気合を入れて観察すれば発見が多いかもしれない。

 サキャを離れてからの中尼公路は5000㍍地帯を駆ける。ここら辺に来ると既に頭痛が再発する。ラサまでのバスよりは、ランクルに乗っているほうが環境が良いので辛さも緩和されているが、それでも空気が薄いというのはやっぱり同じである。歩くと疲れるだけでなく、少し不自然な体勢になるだけで辛い。例えば、しゃがんで立ち上がると息が切れる。小生の予想では血の流れが少しでも悪くなる姿勢を取ると、酸素のめぐりが悪くなって苦しいということなのだろう。万事がそういう状態なのである。


 そして、ラツェの街から少し行くとチョモランマ(エベレスト)が見えるようになる。チベタンにとっては何の価値もない山らしく、チベタンの運ちゃんは「何が珍しくて外国人はチョモランマばかり関心があるのかねえ。」とぼやいていた。たしかに見ていてもあまりスピリチュアルな山でないことは事実である。そこが聖なる山カイラスとの違いである。

 ただ、それでも根が田舎者の小生は「おー、チョモランマだぜー。」と叫ぶ。ここで薀蓄を二つ。ヒマラヤというのはサンスクリット語の「hima(雪)」と「alaya(ある)」ということで「雪のあるところ」。チョモランマとはチベット語で「chomo(女神)」と「lungma(世界の)」で「世界の女神」。うーん、なんとなくロマンを感じる。

 そうこうしている内に車はシェーカルの街に着く。この街はきっとチョモランマに行く人のためにできたような街で中尼公路沿いに30軒くらいの建物が並ぶだけの村落である。もう少し先に行くとティンリーという町があって、昔はそこがチョモランマ行きのベースになっていたようなのだが、今はシェーカルの方がメジャーなようである。したがって、シェーカルは「ニュー・ティンリー」とも呼ばれている。ヒマラヤ・ホテルに宿を取る。20元。特記すべきは非常にフレンドリーな宿だったということだろう。


 シェーカル自体5000㍍近いので、その寒さたるやシャレにならない。しかし、小生は顔を洗って、すっきりしたかったので近くの凍った川に行って顔を洗う。切れるような冷たい水で爽快な気分になる。ただ、あとで現地の人に聞いたら「上流でチベタンが川に用を足しているかもしれないから水は綺麗じゃないかも。」と言われた。「おい、そういうのは先に言えよ。」と思いつつも、まあ、特に流れの中に変なものは見なかったので大丈夫だろうが。

 この辺りまで来るとさすがに携帯電話も繋がらないし(シガツェくらいまでは繋がる)、物資もあまりない(と言っても店には最低限の品は置いてある。)。ホテルでは燃料にヤクの糞を使っていた。繊維質のせいか、意外に良く燃えるものである。しかも、このあたりではコメも貴重品で、現地の人は大麦の粉ツァンパにバター茶を混ぜて食っている。しかし、ツァンパは不味い。バター茶はヤクのバターを茶の中に攪拌させたものという感じ。味覚次第ではイタリアのチーズを茶に混ぜたと言えなくもない。小生はツァンパは駄目だったが、バター茶は結構気に入った。

 夜が更けるとすることもないので寝るしかない。起きてウロウロするほどの事もないし、第一、マイナス10度近くてとてつもなく寒いのである。ただ、寝る前の散歩の時に気付いたのだが、巡礼で移動しているチベタンはどうも、この寒さの中でも外で寝ているようであった。我々が止まったホテルの傍には膨大なボロ布(というか毛布)に包まったチベタン少年達が楽しそうに寝ていた。彼らの感覚はちょっと想像を越える。


 そんなこんなで夜も更ける。東京から持ってきた借り物の寝袋が役に立つ時である。マイナス10度くらいまでは大丈夫らしい代物なので、たしかに寒くはなかった。ただ、やっぱり寝袋で寝るのはなんとなく窮屈なものである。