まだまだ先生の死から立ち直れない。

子供との会話も半分聞いてないし、勉強にも身が入らない。

この調子では仕事もこんな感じになってしまいそう。

写真を探したんだけどやっぱりなくて、コロナの時にもらったかわいいカードを代わりに置いてみた。

何をみても涙がでてくる。

と同時にまだ信じられない。

あの夜の電話は何かの間違いで、今度行ったときには先生がいつものように「発表会どうだった?」って笑顔で迎えてくれる気がしてならない。

病気で死ぬなんて、あんなにあんなに元気そうだった先生、2日前まで笑顔でレッスンしてくれた先生が。

先生との最後の日、急に大雨が降ってきて私はびしょぬれでお迎えにいったので、そっちに気を取られたのと、いつもなら譜面をもっていかない娘が、その時の先生のアドバイスで譜面をもっていくことになり、先生のメッセージとかシールとかいっぱいの譜面を先生の代わりみたいにしてもっていくことになった。

その時最後に、繰り返しのところがいつもわからなくなって、終わりがわからなくなる娘を気遣って、ここが終わりと書いてシールをはってくれた先生のことを楽譜を見てたらふいに思い出した。

あれが最後だったな。

心臓を患っていらしたということは、こういうことをもしかしたらいつも想定していたのかもしれない。

それでもたんたんと人生を送っている感じだった。

少なくとも最期の5年は。

私が知る限り、留学したという様子もないし、音楽大学をでて自分も通っていたピアノ教室でピアノを教えてっていう人生。

他人からみたらそういうもの。

病気だから、先がどうなるかわからないから、といって何か特別なことをしようという感じではなかった。

先生はピアノを教えるのがすきだったのだと思う。

好きなことを仕事にして、夢中でやっているさなかに突然終わる。

人生というのはそういうものなのかもしれない。

昨年、がんと言われるまでは、自分の人生がいつか終わるなんて考えもしなかった。

乳がんと宣告されたときに、なんだか急に自分も死ぬ時がくるんだと思ってしまって、このまま死んでいいものかとちょっとやけになったりした。

本当は海外に住んでみたいとか、こんな仕事したくなかったとか、別の人と結婚するんだったとか、いろいろ思った。

でも結局、そう思うことでもっと今がみじめに思えてしまうだけ。

時間に限りがあるって実感すると、よく転職したり、好きなことをする時間を増やしたりするとかいうけど、夢を追いかけるとかいうけど、そんなことはめったにないのかもしれない。

もし1年後に死ぬって言われても、結局同じ生活を淡々と続けるのかも。

何かを変えるというよりも変わらない平凡な日々が続いていくということが幸せ。

突然死ぬということはそいういう日々が突然終わるということだ。

今だって結局1年前とは何も変わらず過ごしているけど、先生は死んでしまったのだ。

病気でも死にそうでも、生きているということと死んでしまうということには大きな隔たりがある。

今日もセレブのママ友と約束があって、子供を遊ばせ、少しだけ会話したけど、いつものようなものすごい羨望感が全く浮かんでこない。

今の自分、自分がうらやましいと思う生活とは程遠い今の自分、いつも嫌だったけど、死んでしまったら本当に終わりなんだ。

とりあえず生きているし、明日も生きてむかえられると思う。

この差は大きく、こうやって身近な人が突然亡くなるということはそういうことを目の当たりにさせられるということだ。