山口から進学の為、大阪に行きました。私が二十歳の時でした。顔に発疹が出てきたのです。それは段々と身体中に広がり高熱が出ました。病院へ行くと「麻疹」と言われガクっときました。大人になってからなるととてもひどくなります。私は入院、隔離されました。 


 ちょうど阪神淡路大震災があった年です。学校も春休みに入ってたので母が無理矢理退院させ山口の病院へ転院になったのです。バスを乗り換え、電車を乗り換え、新幹線が乗れるところまで行きました。私はまだ、熱もあったし、なにより身体中に発疹が出たまま大阪から山口まで約1日かけて帰った事を覚えてます。

 前回のブログにも書きましたが小学生からは腸捻転やイレウスに何度もなり、そのたびに入院、絶食、鼻からマーゲンチューブを入れられチューブからでる胃の

の内容物を尿バックに貯め、点滴の毎日でした。


 痛みがひどいときは塩酸モルヒネを使用してもらい、その時だけ眠れる。でも、目が覚めるとまた激しい痛みが襲ってくる。麻薬もあんまり効かなくなり痛みが始まる感覚が徐々に短くなり、痛み止めを使う時間が決められてきます。


     静注は即効性があるけど痛みの出現が早い。

     筋注は痛くて即効性はないけれど持続性がある。


 痛み止めは種類にもよると思いますが短期間に何度も注射投与できません。なので、痛み止めを使っていい時間になるまで激痛に耐えながら待っていないといけない事がたたありました。

 このまま、気を失いたいと何度思った事でしょう。


 このイレウスとの闘いは私が34才になるまで続きました。



 ヒルシュスプルング病、皆さんは聞いた事がありますか?私はそのヒルシュを持って産まれてきました。

 母の話によると「お乳を飲まない、すぐに吐いてしまう」などの症状が続いた為、産婦人科医院から赤十字病院へと転医となったそうです。日赤でもしかしてヒルシュではという疑いで大学病院に行かなければならなくなりました。


 母がまだ産婦人科の医院に入院をしている時に「九州大学」か「大阪大学」かどちらかに決めてくれと言われたそうです。その当時、ヒルシュは難病で全国で手術ができるところが九大と阪大しかありませんでした。母は10代でしたが、 山口から比較的近いという事で「九州大学附属病院」へと行く事になったのです。


 九大医学部の講義に珍しい症例として私は保育器の中に入れられ医大生達に囲まれモルモット状態だったと聞きました。


 生後、何週間かで第1回目の腸の神経がないところを切除し、人工肛門を造設するオペをしました。


 それから1年の入院生活後に第2回目の人工肛門の根治手術をしました。

 今はストマーという便利なものがありますが、36年前はそんなものはなく剥き出しにされた腸にガーゼを当ててオムツで囲ってました。便が絶え間なく出て、それを拭くたびに血で滲んで母や叔母たちは私の事をとてもかわいそうな子だと思ってました。


 それからの私の記憶では嫌なくらい浣腸をされた事、大学病院での苦しい検査(注腸など)しかないです。

 

 排便のコントロールがうまくできなかった私に幼稚園で待ってたものは上級生の心ないいじめでした。それに体重測定の時にみんなにはなくで自分にだけあるお腹の傷・・・

 お腹の傷は成長するにつれて大きくなり、それに比例して心の傷も大きくなっていきました。


 小学校2年生で腸捻転を起こし緊急入院、それから3ヶ月から4ヶ月に1回はイレウスで入院している状態でした。


 中学生になってもイレウスで何度か入院。高校生の時も試験が受けれなかった事、修学旅行にも行けませんでした。


 高校を卒業して大阪の検査技師学校に行く事になりました。親戚一同、猛反対でした。でも、母だけが「やりたい事をやればいい」と言って応援してくれました。私は嬉しくてやれなかった。でも、その影で母は周りからいろいろ言われていたみたいです。


 イレウスも少し落ち着いたと思ったのもつかの間、私はアパートで倒れて救急車で運ばれてました。近所に住んでいた友達が実家に連絡してくれて私が気がついた時には母が新幹線で私の元に来てました。

 私はこの時の入院で就職試験と卒業試験を棒に振ってしまい1年留年をしてしまいました。


 今日はこのへんで・・・



ペタしてね