りんごのブログ

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~起業を目指す大学4年生の熱い日々~

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ここ最近実家に帰ることが多いいのですが、やはり実家は落ち付かないというか、居心地が悪いです。

理由は親の不仲です。毎晩毎晩いや、毎分毎分口論を繰り広げます。

本日も相変わらず・・・


本当にどうでもいいようなことですぐに口論になります。私が小学生の時ぐらいからそんなこんなが続いているのに未だに離婚しないのが不思議でなりません。

年に一度は姉(私は兄弟)といつ親が離婚するかを話し合うほどです。


この年になると(まだまだ若ぞうですが)はっきりいってどちらでもいいですが、口論する姿を見ると「離婚すれば?」といつも思います。


本人同士はどう考えているんでしょうかね。「子供のため」とか言って離婚しないなどほざいた日にゃ

ふざけるなと言いたい!!と姉と笑って話してます^^


ああ。2日連続の親の愚痴を綴ってしまいました。別に病んでいるわけではないですがかなりのストレスになっているのは間違いないですね。親不孝者のいい例です^^


昨日久しぶりに実家に帰り母と私の就活の話で少し口喧嘩をしました。
「旅館に就職しようと考えてる」
その言葉を聞いた母は「何で大学を出てまでそんなとこに就職なんかするの?」
と強い口調で言い放ちました。
その質問のしかたに私はぶん殴ってやろうかと思うほど(親不孝ものです)カッときましたがぐっと堪えて母の言い分を聞くことに。
しかし理由を聞いても私は納得しません。子どものことを大切に思う気持ちは伝わりますし
そのことに感謝は多いにしています。がたとえ親と言えど子の意志を否定することは出来ないのではないでしょうか。

私たちの時代は生まれた時から生きることには何不自由なくモノも環境も整っていました。
ほとんどの人(子ども)はそこまで大きな苦労はしてこなかった(個人差はあると思いますが)でしょう。
しかし、不自由なく。が自由であるかと言われるとそうではありません。私たちは親たちによって舗装された道を歩かされていたにすぎないのです。あたかも自分の意志で歩いているかのように。
長い間そのことに気づかずにいました。それもそうです。舗装された道は綺麗です。でこぼこでもないし
砂利道でもありません。そのような綺麗な道ではつまずくこともなければ、転んで怪我をすることもありません。そんな道の上を歩いていれば何も問題は起こらないのです。そして道に迷うこともありません。
そんな生き方、生かされ方を私たちはしてきました。

親にとって子どもはいくつになっても子どもです。それは間違いないでしょう。
しかし今までの通りに親に先導された道を歩きたいかと言うと答えはノーです(就活において)。
子どもであろうとも自分の歩く道は自分で決めます。自分で決めたいのです。
そうは言っても今まで自分の意志で歩いたことはないので歩き方を知りません。道の選び方、見つけ方を知りません。どうすればいいのかわかりません。迷います。もしかしたら迷い方も知らないという状況かもしれません。
だからまた誰かによって舗装された道を探し、その上を行こうとする。(意図的に乗せられると言った方が正確かもしれませんが)

そうする内に私たちは『考える力』をなくします。他者から与えられたものを自分の考え。と錯覚してしまっているからです。そこには「本当の自分の考え」は存在しません。
しかしその「本当の自分の考え」がない状態を気づき、悩み、不安に感じている人は多くいます。
そういった人たちは時にその悩みや不安を解消するために(本当の自分をつかむために)「資格」を武装しようと必死になって勉強します(資格をとることを否定している訳ではありません)。そしてその勉強している自分を「本当の自分」と感じ突き進んで行きます。
一方でそのやり方に違和感を感じている人もいます。その人は違ったアプローチ方法で「本当の自分の考え」を探ろうとします。しかしこのやり方は他者から見えにくいものです。特に前者から見たら何もやっていない姿かのように見えるのでしょう。だから「お前も資格をとれ」などと訳のわからないことを口にします。「なぜそれをとる必要があるのか」と聞いても「 それで仕事が出来る」としか答えない(資格が何も役に立たないと言っているのではありません)。しかし後者はそんなことはどうだっていいんです。知りたいのは自分が何を考えているのか。です。そこをつかめないでいるから苦しんでいるのです。
そこで私たちが求めているのはアドバイス(舗装された道)なんかではありません。「共に悩んでくれる」ことを求め、そこから自分の力で自分をつかんでいきたいのです。

我が子、大切な人を思う気持ちは痛いほど伝わってきます。しかし私はそんな人たちの作品でもなければロボットでもありません。一人の人なのです。自分の意志で歩きたいのです。失敗してもいい。痛い思いをしてもいいんです。それらを経験しないことが幸せな人生ではないのです。沢山の生傷をつけながらも自分の道を歩んでいきたいんです。


なんか長々と叫んでしまいましたが、まぁいいのです。無視しておけば。気持ちだけは受け取りますが。


先週の話です。

実践的な経営塾、ふくおかビジネスアカデミーに特別講師の方がお越しくだり、『働き方』をテーマに貴重なお話をしていただきした。

仕事とは何か?
何のために働くのか?
そもそも働くとはなにか?

まだアルバイト経験しかなく働くこととは何かつかむことがなかなか難しい我等学生にも、大変イメージしやすいように話してくださいました。
また講師×学生との対談も気づきの多い場となりました。

今回のこの学びの場で私が一番『掴んだ!』と感じたことは自分の成長の定点観測点(以前大学教授から言われたこと)とはこれか、ということです。

今まで私には自分がどの段階でどういった成長を遂げたのかが全く見えていませんでした(成長しているのかも疑わしい)。
それは過去の自分と今の自分とで比べられる正確なモノ(点)がなかったからです。正確にはその点が何なのかがわかっていませんでした。

しかし今回、講師の方からの問いがきっかけでその点(らしきモノ)を
掴んだと思っています。

それは『なぜ?』という問いでした。
ある私の日常生活の中のでの行動に対してその問いは投げかけられました。通常、このような問いには~だから。という回答の仕方をしますよね。私もそのとき~だから。と答えました。

ここです。ここで私はおかしな点に気づいたんです(話が急ですよね汗)。
何でもいいですがイメージしてください。例えばこんな質問にどう答えますか。

あなたはなぜ彼(彼女)と付き合っているの?

A1,相手のことが好きだから。
A2,相手が自分のことを好きだから。

どちらの回答がしっくりきますか。
私は前者の方がすっと入ってきます。
それはなぜでしょうか。
理由は起点の違いです。
前者は自分が起点となり付き合う選択をしています。自分が相手を好きだから、と。しかし後者は相手がその選択の起点となっています。
この場合付き合っているという現状の起点(原因)は相手にあるんです。自分の意志ではないように思われます。

話を戻します。
先に述べた、講師の方からの質問もこれに似た質問でした。
それに対しての私の回答は後者のようなものでした。

すぐさま私はその自分の回答に対して違和感を感じなぜそのような言葉を発したのか考えました。
その答えは先に述べた通りです。
そのには自分の意志で動いてると思い込みながらも実はそうではない、自分の意志で動くことから逃げていた自分がいました。
しかしすぐさま修正です。


この気づきこそが私は点であると感じています。小さな気づきかもしれないけれども、確実にこの点は私の心に刻まれここにも残すことができています。こういった小さな点を積み重ね、一つ一つの点と点を繋ぐことができたら何か大切なものが見えてくるのだと思います。

そしてその点は他者との関わりの中、自分との関わりの中で気づいていくものではないでしょうか。

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