ざり、ざり、と、砂利を踏みしめる音がしている。
降りしきる雨の中、一人の侍が唐傘をさして河原を歩いていた。
暗い着流しの帯に無造作に大小を帯び、黒く染めた草鞋を履いている。
髷は結わず、長く伸びた黒髪を頭の後ろで束ねており、それが駿馬の尾のように揺れていた。
小さい傘の中に自らを押し込むように身を縮め、ゆっくり、ゆっくりと。
街の喧騒などには目もくれず、ただゆっくりと河原を歩く。
この侍は、それをもうひと月も続けていた。
ある時、河で漁をしていた男が侍に声をかけたことがある。
「旦那、毎日そんなところを歩き回って、いったい何をなさってるんで」
侍は薄い微笑を浮かべ、漁師にこう答えた。
「待っているのだ。私を求める者を。いつ来るかはわからんがね」
その日からも変わらず、侍はただ河原を歩き続けた。
何を待っているのか、侍にもわかっていないようだった。
――すでにひと月あまり、毎日のようにこの河原を歩いている。
私は何を待っているのか。
確かに、予感はしたのだ。
いつか、私を求める者が来ると。
それが誰で、いつその者が現れるのか。
見当もつかない。
それでも私は、自分の予感を信じた。
私は己の予感に裏切られたことはない。
幾度となく訪れた命の危機を、予感に従って切り抜けてきた。
時には言葉を操り、時にはこの剣を振るって。
恐らく私を求めてここに現れる者は、私に剣を向けるだろう。
私の名は多少大仰に、剣士たちの間に広まっているようなのだ。
ひと月前までは、名を上げようとする若武者や腕試しをと挑んでくる武芸者などがひっきりなしに現れたものだ。
私はそれらを皆斬り捨ててきた。
私がそれらの者に敗れる予感はしなかった。
事実、私は一太刀たりとも浴びていない。
だが。
予感は告げる。
次に私と相対する者は、私を斬るだろう、と。
私はその予感を迷いなく信じた。
幾度剣を交えても、私を越える者はついに現れなかったというのに。
はっきりと予感がそう告げたのだ。
私の身体は、覚えのない悦びに震え立った。
――雨が止んだ。
侍は傘を閉じ、軽く振って水滴を振り飛ばした。
じゃり。
ふと、背後に足音を聞いた。
ゆっくりと振り返る。
黒い着物、黒い袴。
そして燃え滾る炎のような真紅の鞘の刀。
侍に負けないほど長く伸びた髪の下に見える顔は、かなり若い。
燃えるような瞳で、眼光鋭く侍を見据えている。
両手をだらりと下げてはいるものの、一寸の隙も見られない。
間違いなく、今まで出会ってきた中で一番の手練れだ。
黒い若者は侍に、軽く頭を下げた。
「挨拶は不要と存じます。お手合わせ願いたい」
侍はいつか見せた薄い微笑みを浮かべ、傘を捨てた。
「お相手いたす」
二人の剣士が、ほぼ同時に剣を抜いた。
侍は剣先を高く舞い上げ上段の構え。
対する若者は、剣先をひたと侍の喉に向け正眼に構えた。
まだ湿っぽさの残る空気に、ぴりっと痛みが走る。
間合いはまだ遠い。
お互い少しずつ足を前に運び、間合いを詰めていく。
雨上がりに出てきた人々が、何事かと河原に集まり始めた。
徐々に広がっていく人だかり。
その中にあって、剣士二人の周囲だけに異様な空気が渦巻いていた。
上段の間合いは正眼のそれよりわずかに広い。
若者の足先がその間合いに踏み込んだその瞬間、侍は動いた。
稲妻のような斬撃が若者に落ちていく。
煌めく白刃が若者の額を割る――そう見えた。
しかし。
次の瞬間には、若者の刃が深々と侍に突き刺さっていた。
振り下ろされた侍の刀は、わずかに若者の方を傷付けたのみだった。
ごぼ、と侍が喀血した。
見る見るうちに力が失われ、刀が手から河原に滑り落ちる。
どお、と大きな音を立て、侍は肉塊となって転がった。
もはや動くこともない。
若者は懐紙で刀身を拭うと、大きく血振りをして刀を納め、骸に頭を下げて去っていった。
――熱い刃が自らの中に潜り込んだ時、侍は笑った。
これを待っていたのだ、と。
己が死に向かうこのひとときを、私はずっと待っていたのだ。
一度たりとも己の予感を疑うことなく、侍は河原に散った。
その骸に、再び雨が降り注いだ。
終
降りしきる雨の中、一人の侍が唐傘をさして河原を歩いていた。
暗い着流しの帯に無造作に大小を帯び、黒く染めた草鞋を履いている。
髷は結わず、長く伸びた黒髪を頭の後ろで束ねており、それが駿馬の尾のように揺れていた。
小さい傘の中に自らを押し込むように身を縮め、ゆっくり、ゆっくりと。
街の喧騒などには目もくれず、ただゆっくりと河原を歩く。
この侍は、それをもうひと月も続けていた。
ある時、河で漁をしていた男が侍に声をかけたことがある。
「旦那、毎日そんなところを歩き回って、いったい何をなさってるんで」
侍は薄い微笑を浮かべ、漁師にこう答えた。
「待っているのだ。私を求める者を。いつ来るかはわからんがね」
その日からも変わらず、侍はただ河原を歩き続けた。
何を待っているのか、侍にもわかっていないようだった。
――すでにひと月あまり、毎日のようにこの河原を歩いている。
私は何を待っているのか。
確かに、予感はしたのだ。
いつか、私を求める者が来ると。
それが誰で、いつその者が現れるのか。
見当もつかない。
それでも私は、自分の予感を信じた。
私は己の予感に裏切られたことはない。
幾度となく訪れた命の危機を、予感に従って切り抜けてきた。
時には言葉を操り、時にはこの剣を振るって。
恐らく私を求めてここに現れる者は、私に剣を向けるだろう。
私の名は多少大仰に、剣士たちの間に広まっているようなのだ。
ひと月前までは、名を上げようとする若武者や腕試しをと挑んでくる武芸者などがひっきりなしに現れたものだ。
私はそれらを皆斬り捨ててきた。
私がそれらの者に敗れる予感はしなかった。
事実、私は一太刀たりとも浴びていない。
だが。
予感は告げる。
次に私と相対する者は、私を斬るだろう、と。
私はその予感を迷いなく信じた。
幾度剣を交えても、私を越える者はついに現れなかったというのに。
はっきりと予感がそう告げたのだ。
私の身体は、覚えのない悦びに震え立った。
――雨が止んだ。
侍は傘を閉じ、軽く振って水滴を振り飛ばした。
じゃり。
ふと、背後に足音を聞いた。
ゆっくりと振り返る。
黒い着物、黒い袴。
そして燃え滾る炎のような真紅の鞘の刀。
侍に負けないほど長く伸びた髪の下に見える顔は、かなり若い。
燃えるような瞳で、眼光鋭く侍を見据えている。
両手をだらりと下げてはいるものの、一寸の隙も見られない。
間違いなく、今まで出会ってきた中で一番の手練れだ。
黒い若者は侍に、軽く頭を下げた。
「挨拶は不要と存じます。お手合わせ願いたい」
侍はいつか見せた薄い微笑みを浮かべ、傘を捨てた。
「お相手いたす」
二人の剣士が、ほぼ同時に剣を抜いた。
侍は剣先を高く舞い上げ上段の構え。
対する若者は、剣先をひたと侍の喉に向け正眼に構えた。
まだ湿っぽさの残る空気に、ぴりっと痛みが走る。
間合いはまだ遠い。
お互い少しずつ足を前に運び、間合いを詰めていく。
雨上がりに出てきた人々が、何事かと河原に集まり始めた。
徐々に広がっていく人だかり。
その中にあって、剣士二人の周囲だけに異様な空気が渦巻いていた。
上段の間合いは正眼のそれよりわずかに広い。
若者の足先がその間合いに踏み込んだその瞬間、侍は動いた。
稲妻のような斬撃が若者に落ちていく。
煌めく白刃が若者の額を割る――そう見えた。
しかし。
次の瞬間には、若者の刃が深々と侍に突き刺さっていた。
振り下ろされた侍の刀は、わずかに若者の方を傷付けたのみだった。
ごぼ、と侍が喀血した。
見る見るうちに力が失われ、刀が手から河原に滑り落ちる。
どお、と大きな音を立て、侍は肉塊となって転がった。
もはや動くこともない。
若者は懐紙で刀身を拭うと、大きく血振りをして刀を納め、骸に頭を下げて去っていった。
――熱い刃が自らの中に潜り込んだ時、侍は笑った。
これを待っていたのだ、と。
己が死に向かうこのひとときを、私はずっと待っていたのだ。
一度たりとも己の予感を疑うことなく、侍は河原に散った。
その骸に、再び雨が降り注いだ。
終