みなさま

 

こんにちは~~

 

雨です。

 

 

 

私は 涼しくてうれしい。

 

かなーリ昔 変なおじいさんが 東京自慢をしてきた。

 

「かがやーく 聖路加か♪ ってねーニヤリ

 

君は知らないの?」

 

 

知らん・・・

 

なにそれ?

 

聖路加病院は聞いたことがある。

 

てか なにを言いたい?

 

 

そのおじいさんは わたしを田舎者だと言いたかったようだが

 

このフレーズしか歌えずwwww

 

意味不明のまま 私の心に残った。

 

 

その後 すっかり忘れていた。

 

 

東京ラプソディを ユーチューブで検索したら

 

一緒に 表示されていたから 聴いてみたら 見つけた。

 

「これか~~~~~びっくり

 

 

昭和22年 そうか

 

もう音楽家さんたちは 軍歌を作らなくていい。

 

聖路加には まだ 負傷した方がいるのだろう。

 

でも この歌の様子だと 治りそう。

 

当たり前に 病院で治療できて 暮らしの秩序が戻った安堵感なのかも。

 

あ。 もしかしたら

 

家族の誰か(多分 お父さん?息子さん?ご主人?)が 

 

戦争で負傷して帰ってきて でも ちゃんと聖路加にいる安心感が

 

「輝く 聖路加か」 「はるかに朝の虹も出た。」なのか?

 

 

だから 銀座が 三越(というのも私の独断だけど)ではなく

 

聖路加なのか。

 

(聖路加病院は アメリカの人道的配慮で 空襲されなかった。はず。)

 

まだ 復興していないんだなあ。

 

 

たしかに この歌 とてもキレイで素敵だけど

 

耳だけじゃ 覚えにくいなあ。

 

テレビも まだ。

 

かの渋谷の NHK放送センターは 

 

昭和22年だと まだGHQのワシントンハイツだびっくり

 

NHKになるには あと3年待たないといけない。
 

 

 

だとしたら この歌が広まったのはレコードだろうか。 

 

街角で流れていたのかもしれない。

 

ラジオは あったはずよね。

 

 

なるほどー。

 

 

歌詞も 曲も 渾身の作に聞こえる。

 

塞がれていた口を 解かれて

 

言いたいことがいっぱいある。

 

恐らく まだ物資不足で 一曲入魂だったのかもしれない。

 

韻を踏んで めいいっぱい詰まった歌詞 

 

曲はさり気に効かせた転調がいっぱい。

 

歌手も 滑舌よく ちゃんと聞き取れるし 口ずさめる。

 

なんて贅沢なお歌。

 

 

戦時中より深刻だったと聞く食糧不足。 

 

闇市が立ち 戦災孤児も 当たり前にいて 

 

女たちは『肉体の門』 だったはず。

 

 

その中で 夫婦になろうとしている二人がいて

 

想いは「風に通わす」のだ。

 

電話は あったはずだけど どうだったんだろう。

 

家を焼かれた状態で 普通にあるわけがなく

 

戦後の公衆電話の普及は 昭和26年かららしい。

 

ていうか 相手に電話がないと 意味なさそう。

 

 

それでも もう 空から焼夷弾が降ってこない。

 

この国のために4ねとは 言われない。

 

生き残ったことだけが 勝利。 

 

明日の食料もおぼつかない 

 

家族だって失った敗戦の中

 

みんな 口に出せない自分の勝利を嚙み締めていたはず。

 

 

「川の流れにも 嘆きを捨てたまえ」 で  「たまえ」ですよ。

 

(貧しい人々の) 「哀れは いつか 雨に溶け」で

 

「ねごうは 同じ夢」

 

「ねがう」 ではなく 「ねごう」ですよ。

 

そうよねー

 

日本語としては

 

「が」 より 「ご」 のほうが 品がある音よね。

 

 

 

心強く 品格がある人たちが

 

軍服や国民服ではなく スーツ(いや この頃は背広だろう。)に着替えて

 

歌ったお歌。

 

振り付けもなかったと思う。 マイクの前に直立不動だったと思う。

 

あ そうか。 

 

テレビじゃないから レコーディングだけだから いいのか。

 

この後来る 昭和30年代の アングラ的なものは まだない。

 

どことなく アメリカの匂いがする。

 

淡い としても もう 夢が生まれている。

 

 

この頃 (多分 アメリカに気を使って)

 

敗戦の悲しみを声高に歌う ということはない。

 

失ったものすら 大きすぎて まだ漠然としか受け取れない。

 

ちょっと前まで 言論も統制されていたから

 

統制されていた言語になる敗戦を 終戦と言い換えても

 

手放しで喜ぶなんてことも できない。

 

玉音放送を 正座して聞いて 泣いたのは たった1年半前。

 

反戦歌なんて まだ怖くて歌えない。

 

たくさんのことがありすぎて なにから話したらいいのか わからない。

 

たくさんの思いを表すには 歌が一番じゃないか。

 

この曲はマーチで 作業のBGMに向いている。

 

この曲を流しながら せわしく復興作業をしていたとしたら

 

軍歌より どれほど晴れやかな気持ちになっただろう。

 

 

それにしても

 

私が 変なおじいさんに会ったのは

 

もうバブルが始まりかけてた頃だったと思う。

 

その頃は まだ ネットもなくて 探しようがなかったよ。

 

 

ずっと 心の歌だったのだろうか。

 

1フレーズしか 口ずさんでもらえなかったけれど

 

心の中では 歌っていたのだろうか。

 

この歌が流れていた頃は 少年だったのか 青年だったのか。

 

おじいさんのことなんか 何も知らない。

 

けれど

 

戦争中の4年間 「お国のため」以外の生き方ができなかった人々が

 

それぞれの元の暮らしに戻って、やっと地に足がついた喜びの歌

 

キラキラ してたんだろうなあ。

 

 

 

今聞いても とてもステキ。

 

 

歌うと 滑舌の練習になりそうwwwww