あの頃のこと。
りんくうと、出会ったのは、6年前の、2月。
真冬の寒い時だったね。
5月から、合同訓練が始まって、一緒に暮らし始めたのは、翌年の2月でした。
合同訓練が長引いたのは、ママが、途中で、入院を2回もしてしまったから…。
一緒に暮らし始めた3ヶ月後、りんくうは、育成団体に、帰りました。
ママは、同時に、右目が見えなくなって、視神経炎を患ってることがわかり、即入院。
ステロイド大量投与の点滴が始まり、その後、プレドニンという苦いステロイドのお薬を飲むことになりました。
薬の影響で、抵抗力の落ちた体では、病院から外出もできなくて、1ヶ月間、入院生活を送りました。
退院してから、再び、りんくうと暮らせるようになったものの…。
その年は、多発性硬化症の再発が、8月と10月と11月と、続けて起こってしまい…。
その度に、外来で、パルス治療(ステロイドの大量点滴)に通いました。
タクシーに乗って、りんくうも、病院まで付いてきてくれました。
点滴中は、点滴室の外の待ち合いで、1時間も、母と一緒に待ってくれました。
11月の再発した時に、多発性硬化症の再発を予防する効果がある、『ベタフェロン』というお薬を、使うことを、主治医の先生から、勧められました。
ベタフェロンは、皮下注射で、2日おきに、自己注射(自分で注射する)しなければなりません。
また、副作用も出ることがあるようで、発熱したり、うつ状態になったり、肝機能障害や、白血球低下など、起こることがあります。
薬を始めるのに、副作用は出ないか?
副作用に、対処できるか?
また、注射の打ち方を学んで、自分で打てるようになるために、『教育入院』と言って、1週間入院することになりました。
ママは、手が不自由なので、主治医の先生から、「両親に注射を打ってもらえるようになること」を言われて、父が、仕事帰りに、病室に来ては、病棟医の先生から、注射の仕方を教わりました。
でも…
その入院中に、大きな再発に襲われました。
今から、5年前のことです。
全身が麻痺して、一時期は、全くの寝たきり生活になってしまいました…。
リハビリが始まりましたが、サチュレーションモニター(酸素濃度を計る機械)などを付けて、先生は私を抱えて、身体を起こして、ベットに座らせてくれました。
…車椅子に座れるようになれるんだろうか?
その時は、私には、そのことさえ、絶望的に見えました…。
毎日、病室からも出られずに、病室の天井ばかり見ていました…。
唯一、検査に行くのに、ベットに寝たまま、病室の外に出た時は、景色が変わって、うれしかった!
入院中に、リハビリの先生の、全面介助で、何とか車椅子に座れるようになりました。
だけど、ほんの10分くらいで、体が辛くなって、座ってられなくなりました…。
私は、寝返りもできなく、食事さえ、自分で取れない状況で…、母は、私の身の回りの介護のために、24時間、病院に付き添っていました。
入院当初から、りんくうは、病院側の理解で、病室まで同伴許可を頂き、家と病院を往復して、私の側に居てくれました。
仕事から帰った父が、私の変わりに、毎日、りんくうの散歩をしてくれました。
ある日、リハビリの先生が、「りんくうも、退屈やよな~♪」と、私の車椅子にくくり付けたバンダナを、りんくうに咥えさせて、病棟の廊下を、軽く走ったことがありました。
私は、全く、自分で車椅子をコントロールできない状況だったので、もちろん、後ろを、リハビリの先生が持って、付いて来てくれたけれど、りんくうは、生き生き~♪と、楽しそうに、走っていました。
あー、りんくうは、仕事をしたいんだな!と、思いました。
廊下でバッタリ会った師長さんから、「廊下は、走らないでね!」と、叱られました。
通り過ぎてから、リハビリの先生と一緒に、舌をアッカンベ~しました(笑)
その時は、リハビリの先生から、こんなことを言われていました。
「今後は、りんくうとの生活は、無理と違う?」
それは、私の障害が進行したため、介助犬と生活するのは、無理ではないか?という話でした。
そう言われる前から、私は、そのことを感じていました。
介助犬は、道具ではなく、犬であり、完璧なものではありません。
介助犬に、的確に指示を出して、コントロールできる能力が、ユーザである私(障害が進行した)に、あるのか?
また、介助犬が、私の落とした物を拾ってくれても、私に受け取る手の力がないと、介助犬の必要性の意味がなくなってしまいます。
また、りんくうは、頸髄損傷、脊髄損傷の方向けに訓練されていたため、リードを手に持ってコントロールできるようにしつけられていました。
その時の私には、リードを持つ力さえなくて、もしもりんくうにリードを引っ張られると、「あなたの手が脱臼してしまう危険性があるよ…。」と、主治医からは、厳しく言われました。
「今の私には、介助犬使用者になる資格はない。」
と、自分で理解しているのに…、そのことを受け止めることができませんでした。
それは、介助犬である、りんくうとの別れを、意味していたからです…。
次回に、続く。。。
(注)多発性硬化症は、再発と寛解を繰り返す病気です。
一般的には、悪くなったり、良くなったりしながら、階段状に、障害は進行していくと、言われています。
しかし、病状の程度や、経過は、患者さんそれぞれ異なり、個人差の大きな病気でもあります。
今のママの病状は、5年前よりは、回復して、電動車椅子で生活できるようになりましたが、りんくうと出会った時に比べると、障害は進行しています。
真冬の寒い時だったね。
5月から、合同訓練が始まって、一緒に暮らし始めたのは、翌年の2月でした。
合同訓練が長引いたのは、ママが、途中で、入院を2回もしてしまったから…。
一緒に暮らし始めた3ヶ月後、りんくうは、育成団体に、帰りました。
ママは、同時に、右目が見えなくなって、視神経炎を患ってることがわかり、即入院。
ステロイド大量投与の点滴が始まり、その後、プレドニンという苦いステロイドのお薬を飲むことになりました。
薬の影響で、抵抗力の落ちた体では、病院から外出もできなくて、1ヶ月間、入院生活を送りました。
退院してから、再び、りんくうと暮らせるようになったものの…。
その年は、多発性硬化症の再発が、8月と10月と11月と、続けて起こってしまい…。
その度に、外来で、パルス治療(ステロイドの大量点滴)に通いました。
タクシーに乗って、りんくうも、病院まで付いてきてくれました。
点滴中は、点滴室の外の待ち合いで、1時間も、母と一緒に待ってくれました。
11月の再発した時に、多発性硬化症の再発を予防する効果がある、『ベタフェロン』というお薬を、使うことを、主治医の先生から、勧められました。
ベタフェロンは、皮下注射で、2日おきに、自己注射(自分で注射する)しなければなりません。
また、副作用も出ることがあるようで、発熱したり、うつ状態になったり、肝機能障害や、白血球低下など、起こることがあります。
薬を始めるのに、副作用は出ないか?
副作用に、対処できるか?
また、注射の打ち方を学んで、自分で打てるようになるために、『教育入院』と言って、1週間入院することになりました。
ママは、手が不自由なので、主治医の先生から、「両親に注射を打ってもらえるようになること」を言われて、父が、仕事帰りに、病室に来ては、病棟医の先生から、注射の仕方を教わりました。
でも…
その入院中に、大きな再発に襲われました。
今から、5年前のことです。
全身が麻痺して、一時期は、全くの寝たきり生活になってしまいました…。
リハビリが始まりましたが、サチュレーションモニター(酸素濃度を計る機械)などを付けて、先生は私を抱えて、身体を起こして、ベットに座らせてくれました。
…車椅子に座れるようになれるんだろうか?
その時は、私には、そのことさえ、絶望的に見えました…。
毎日、病室からも出られずに、病室の天井ばかり見ていました…。
唯一、検査に行くのに、ベットに寝たまま、病室の外に出た時は、景色が変わって、うれしかった!
入院中に、リハビリの先生の、全面介助で、何とか車椅子に座れるようになりました。
だけど、ほんの10分くらいで、体が辛くなって、座ってられなくなりました…。
私は、寝返りもできなく、食事さえ、自分で取れない状況で…、母は、私の身の回りの介護のために、24時間、病院に付き添っていました。
入院当初から、りんくうは、病院側の理解で、病室まで同伴許可を頂き、家と病院を往復して、私の側に居てくれました。
仕事から帰った父が、私の変わりに、毎日、りんくうの散歩をしてくれました。
ある日、リハビリの先生が、「りんくうも、退屈やよな~♪」と、私の車椅子にくくり付けたバンダナを、りんくうに咥えさせて、病棟の廊下を、軽く走ったことがありました。
私は、全く、自分で車椅子をコントロールできない状況だったので、もちろん、後ろを、リハビリの先生が持って、付いて来てくれたけれど、りんくうは、生き生き~♪と、楽しそうに、走っていました。
あー、りんくうは、仕事をしたいんだな!と、思いました。
廊下でバッタリ会った師長さんから、「廊下は、走らないでね!」と、叱られました。
通り過ぎてから、リハビリの先生と一緒に、舌をアッカンベ~しました(笑)
その時は、リハビリの先生から、こんなことを言われていました。
「今後は、りんくうとの生活は、無理と違う?」
それは、私の障害が進行したため、介助犬と生活するのは、無理ではないか?という話でした。
そう言われる前から、私は、そのことを感じていました。
介助犬は、道具ではなく、犬であり、完璧なものではありません。
介助犬に、的確に指示を出して、コントロールできる能力が、ユーザである私(障害が進行した)に、あるのか?
また、介助犬が、私の落とした物を拾ってくれても、私に受け取る手の力がないと、介助犬の必要性の意味がなくなってしまいます。
また、りんくうは、頸髄損傷、脊髄損傷の方向けに訓練されていたため、リードを手に持ってコントロールできるようにしつけられていました。
その時の私には、リードを持つ力さえなくて、もしもりんくうにリードを引っ張られると、「あなたの手が脱臼してしまう危険性があるよ…。」と、主治医からは、厳しく言われました。
「今の私には、介助犬使用者になる資格はない。」
と、自分で理解しているのに…、そのことを受け止めることができませんでした。
それは、介助犬である、りんくうとの別れを、意味していたからです…。
次回に、続く。。。
(注)多発性硬化症は、再発と寛解を繰り返す病気です。
一般的には、悪くなったり、良くなったりしながら、階段状に、障害は進行していくと、言われています。
しかし、病状の程度や、経過は、患者さんそれぞれ異なり、個人差の大きな病気でもあります。
今のママの病状は、5年前よりは、回復して、電動車椅子で生活できるようになりましたが、りんくうと出会った時に比べると、障害は進行しています。