クモとコオロギ(前編)

 

 私はクモを飼っている。まだ三センチそこらのちっぽけな奴だが、五年もすれば脚も入れて十数センチにもなる大型種だ。今は小さなプリンカップに入れて飼っている。餌と水さえ切らさなければ、後は大掛かりな設備や大した気配りもいらないので、管理そのものは非常に楽だ。

 だが、問題はその餌だ。こういった多足類の仲間はグルメな性格の持ち主が多く、生きたもの、最低でも虫の形をしたものでないと受け付けてくれない。そのため、私は餌用コオロギを使用している。本来ならば育てて鳴かせる存在であるコオロギを食わせるのは心が痛む。だが、その覚悟を持たなくては飼育者の資格はない。

 それでもやはり、生餌を与えるのは抵抗がある。だからこそ、今まで生餌が必要な生き物を飼うときは、人工餌を与えたり、餌をつまんだピンセットを揺らして生餌に見せかけるといった、小細工じみたやり方で誤魔化してきたのだ。そのため、コオロギは買うが、弱って死んだものを与えるようにしていた。一概にクモと言っても、性格の違いや好き嫌いはある。新鮮さや狩猟本能を重視する性分の個体なら、多少不満はあるだろう。だが、幸いにも私が飼育している個体は巣に落ちてきた際の振動とざっくりとした形状で、獲物か否かを判断するらしく、文句も言わずに(?)食べてくれた。それでも、死んだコオロギがいない場合は、覚悟を決めて生餌を与えた。

 そんな中、いつものように力尽きたコオロギを袋からクモのカップの上に二匹落とそうとすると、生きたコオロギも一匹飛び込んで来た。私は少し焦ったが、餌の過剰摂取で急死することがあるムカデと違い(キャパオーバーによる消化不良が原因らしい)、クモはたくさん食べたほうが育つのが早い。脱皮の兆候もないため、脱皮の前後にコオロギに逆襲されることもないと判断し、そのままにしておいた。

 それから数時間後、私が食べ具合を確認するためカップを覗くと、案の定、三匹のコオロギの姿はなかった。そして、クモは原型をとどめていない何かをくわえている。やはり、食物連鎖には逆らえないのだと思ったが、一つ気になる点がある。このクモは日本でよく見かけるジョロウグモやオニグモとは違い、巣を空中ではなく地面に広げるようにして張る。そして、その下に溝を掘ってそこを生活拠点としているのだ。また、びっしりと張られる糸は、ある程度の粘着性があるが、獲物を捕らえる程の強度はなく、形状からもくっつけることに適してない。いわば、巣は獲物を捕らえるネットではなく、屋根兼振動を感じ取るレーダーのような役目をしているのだ。

 クモの食事は長い。大きい獲物なら、深夜に食べ始めたとしても、食べ切るのは明朝になることもある。だが、その間安全な巣の中に入ることがあってもいいはずだ。それなのに、そのクモはいつまでたっても地上をウロウロしている。もしや、コオロギが暴れて巣の入り口が崩れたのではないかと思い、カップの側面から巣の中を確認した。

 そうしたら、いた。あの生きたコオロギが、巣のど真ん中に居座っていた。まるで自分はここに居て当たり前と言わんばかりに、巣の中を闊歩し、出入りしている。それを、クモは飛び掛かるでも追い払うでもなく、ただ見ている。以前、食事中のクモの目の前に新しい餌を落とすと、今まで食べていた餌をかなぐり捨て、新しい方に飛びついたという記録がある。そのため、クモが食べるのに夢中でコオロギを見逃しているということは考えにくい。では、捕食者が被食者にテリトリーを追い出されているというこの状況は一体何なのだろう。

 結局、食事の後から深夜にかけて、クモがコオロギを襲うことはなかった。そして、翌朝もコオロギは健在だった。

 

【つづく】