午前八時のドッペルゲンガー

 

 その日の朝、私は珍しく豆腐売りのスピーカーにも、目覚まし時計にも頼らずひとりでに目を覚ました。時計の針は八時をさしている。休日にしてはかなり早い起床だ。これはもう少しだけ寝ていても罰は当たらないのではないかと思い、寝返りを打って目を閉じた。

 どれくらい時間が経っただろうか。今度はラインの着信音で目が覚めた。見ると、それは祖母からだった。何かあったのかと思い確認すると、「なぜ起きないの?」とあった。正直、訳が分からなかった。いくら二度寝したとはいえ、十分か十五分、せいぜい三十分程度のものだろう。春休み中で早起きする必要もない以上、八時台に起こされる理由はない。祖母に「八時に起きたはず」と返信した。だが、時計を見て愕然とした。軽く寝たつもりが、あれから二時間以上経っていたのだ。それを裏付けるように、祖母から「九時に様子見に行ったらまだ寝てた」との返しがあった。

 たちまち眠気と掛布団がふき飛び、私は跳ね起きた。いくら何でも寝過ぎだ。犬のすみれも散歩を待っているはず。顔も洗わずにパジャマを脱ぎ捨て、ふだん着に着替える。だが、その間も私の脳はこの現状を整理しきれないでいた。私は確かに八時に起きた。そして、ほんの少し目を閉じた。ただそれだけの間に二時間半もの時間が経っているなど、果たしてあり得るのだろうか。

 転げ落ちる勢いで階段を降り、寝ぐせも目ヤニもそのままの状態でリビングに飛び込む。祖母はいつも通りこたつで寝転がっていたが、私を見ると目を丸くし、こう言った。「今までどこ行っとったん?」。祖母は常日頃から、「私がボケてアンタの名前忘れる日が来たらどうする?」などと冗談で言っていたので、一瞬、いよいよその来るべき日が来たかと思い覚悟を決めかけたが、どうも違うらしい。お互いの中で食い違いが起こっているようだ。

 私の中では自分はいわゆる「二度寝」を少しだけしたつもりなのだ。というか、実際それが事実だ。だが、祖母の中では私は八時に起きた後、自分が起床ラッパ代わりのラインを送るまでの二時間以上、扉の開閉音もたてずにどこかに出かけていたと思っていたのだ。

 もちろん、私は超人ではないのでそんな芸当はできない。祖母が起こそうとラインを送った際に、想定外の事態にパニックを起こした私が「八時に起きたはず」などと言い訳じみたラインを返したため、ややこしいパラドックスが生じてしまったのだ。 

 こうして、お互いの理解力と情報伝達力が不足した結果、二度寝した私と音もたてず出歩いた私というドッペルゲンガーが生まれてしまったというわけだ。この際、ドッペルゲンガー扱いされるべきは出歩いていた方だろう。

 ちなみに、ドッペルゲンガーとは、古くから伝わる都市伝説のようなもので、その正体はよく分かっていない。主な特徴としては、自分と姿形から背格好が同じ人物が複数の場所に現れる超常現象だ。死の前兆とも言われており、もし本物の人物とドッペルゲンガーが顔を合わせてしまえば、その人間は近いうちに死ぬと言われている。私はこの手のオカルトチックな類は「あったらいいな」程度に捉えており、本気で信じ込んでいる訳ではない。だが、この時ばかりは背筋に冷たいものが走った。誤解が解けた時には祖母と笑いあったことは言うまでもない。

 結果として、全ては私の想定外の二度寝により引き起こされた、春風のようなちょっとした混乱だった。混乱が収束する頃には午前中の残り時間は無いに等しく、その大半は生き物の世話や朝食に費やされた。この日は一日が何だか短くなってしまった。

 こうして、私の中に夢から覚めた後の厳しい現実と、とち狂った体内時計を残して「午前八時のドッペルゲンガー」は去った。可哀そうに、すみれはお昼前に朝の散歩に行く羽目になった。明日からは決して二度寝などするものか、と心に誓ったのだった。

 

 

≪おわり≫