人は犬や猫より尊い。
地球で、ヒト族は生きものの頂点。
なぜなら、地球上の生きもので人が一番賢いから。
そう思っている人が多いのではないだろうか。
賢いとは、どういうことか、私はわからない。
しかし、人はどんなに努力しても、
一生、愚かなままである。と私は思う。
賢いとは何か、考えてみた。
もし、賢い人がいるなら、
知恵(知識を含む)が豊かで、あらゆる問題に対応できる人だろう。
自分の専門領域や、自分の身の回りのことで傑出した人でも、
他の分野や、経験したことのない世界に投げ出されると、
途方に暮れる。それが全ての人のありよう。
釈迦や聖人たちも同様。
他の生きものにない、こころ、を人は持っていると、
ほとんどの人は思っている。
こころや精神の存在をヒト族の優位のあかしと、
思っている人も多い。
犬や猫にも意識はあるが、
こころはない、と思っている。
私は、犬や猫と同様に、
人にもこころはないと思う。
こころは、神聖なもので、
高貴な存在だと思い込んでいる人。
それは人がそう思いたいだけ。
人が偉いという認識と同じだ。
私は40年以上、瞑想をしている。
瞑想の目的は、内面との対話。
こころとの対話ともいえる。
しかし、こころ、なるものは見出すことができなかった。
内面にあるのは、
生まれてからの記憶の断片。
そして、生後、経験を積む過程で、抱いた感想や妄想。
そのとき、その場で感情や思い。
そんなもの。
それらは、変わりやすい。
同じ状態が続かない。
気分は常に変わる。
いいときも悪いときもある。
私が世界を見る視点も絶えず変化している。
世界は変わらないのに、私の感想は変化している。
内面は一定のもの、変化しないものではない。
心とは何か。
カタチのない化け物のように、変化している。
それは立派でも、
確かなものでもない。
ないという方が、正確な表現だろう。
一時的な感想や思いの雑多な混じりもの。
人は自分のこころを知らない。
他人のこころについても無知。
カタチのない化け物のように、変化しているこころ。
こころとは何か。
そんなものはない、というのが、
正確な記述になる。
もし、賢い人がいるなら、
死とはどういうものか、知っているはず。
人にとって、死はないことも、知っているはず。
人には生しか、与えられていない。
死はありえない。
全ての生きものに当てはまる真実。
人に、意識はあるが、
こころや精神や魂など、そんなものはない。
人が抱きやすい幻想。
死を怖がるのと、同様な幻想。
自分のこころなるもの、
内面と対話すれば、ごくたやすくわかる。
こころは変わりやすい。
近づいて眺めれば、
過去の体験がイメージチェンジされ、変化したものだとわかる。
生まれてからの経験の積み重ねと思い込みや偏執、それらがこころを作っている。
一定の実体はない。
一時もじっとしていない。
絶えず変化変貌している。
そこには、かたちらしきものはない。
あいまいで言葉や概念にできない、雑多な感情や思い。
無意識の領域に広がる思いの集積。
一時の幻想や夢のようなもの。
なぜ、人はこころがあると、思い込んでいるのか、
それは単純である。
その方が、都合がいいからだ。
こころを探索し途方に暮れるのがいやだから、
何もないと分かっていても、あると信じることで、安心したい。
そんな人の願いが、こころを生み出したのだろう。
つづく