人として誠実に生きるとは、どういうことでしょう。

 

人であるから、何事も、何をするにも限界があります。

どれが正しく良い方法や選択であるか、

その人のおかれた環境や条件で異なります。

普遍的な答えはないでしょう。

 

ある場面では、殺人が唯一の道かもしれません。

 

さて、私の場合は、

とても幸運が重なっています。

ほとんど努力らしいことをしなくても、それなりの人生を送れました。

吃音や大学中退や職歴24というのも、大きな問題になりませんでした。

 

一つの例を挙げると、人生途上でK君と出会い、

15年以上、彼を支援してきました。

どのように心を込め誠実に対応しても、

彼を大きく変えることはできませんでした。

できたのは、小さな変化だけです。

彼は51歳で亡くなりました。

私が最初の発見者です。

 

彼がなくなり、私は本当にほっとしました。

大きな重荷を下ろせたのです。

 

これと、同様なことが何度も起こっています。

両親の介護も20年近くなります。

父は偏屈な人間で、扱いにくい人です。

こちらの意図を理解するのが難しい人です。

最後まで自分流儀を変えない人でした。

 

正月2日、4時半におむつ交換に行ったら、亡くなっていました。

死期が迫っているのは、数日前から分かっていました。

父の死に臨み、私はとてもほっとした。

それまで、速足で歩けなかったのが、

死後、普通に歩けるようになり、

非常にびっくり。

重荷が下りたのが実感できたのです。

 

そして、今年、

妻(もう一人の天使)が亡くなるときも、

私は大きな重荷が下りたことを感じました。

 

妻を最期まで看取ることは、私が選んだ責務だったのです。

もし、共倒れになったら、どうしようという不安がありました。

 

私の場合、同様なことがまだいくつかあります。

かけがいのない親友を若くして亡くしていますが、

いずれのときも、何故か、私はほっとしました。

 

これは、エゴともいえます。

しかし、人である以上、

自分中心の見方、考え方、感じ方を超えることはできません。

自分という枠組み、殻や鎧、自我や私やこころ、という独房から

人は逃れることができません。

 

死によって、ようやく、脱出可能となります。

死が人にとって恩寵となる所以です。

 

誠実に生きるとは、

エゴのままに、エゴに忠実に生きることかもしれません。

 

その意味ではトランプさんもまた、

誠実に生きているといえます。

 

エゴを超えることは、人にはできません。

かつての偉人たちも同じです。

 

禁欲でつつましく生きるのは、

人の生き方として、推奨できるものです。

なぜなら、禁欲でつつましく生きると、

多様で雑多な誘惑が少なくなるからです。

 

友人は多い方が人生を豊かにします。

一方、友人が多いと、誘惑も増えます。

それだけ、生きるのが難しなります。

実例として、有名人を見れば、明らかです。

 

人を見抜くというのはとても難しい難題。

私も70歳を過ぎ、人を見れば、その人の内面がわかるような気がしますが、

本当にわかっているのか、不明です。

私の自惚れかもしれません。

 

一般的にいえること、

人生の豊かさを求めるなら、冒険を避けることはできません。

私の場合、友人は、できるだけ多様な人を作りたかった。

安定した関係ではなくても、深い体験ができる相手です。

そうなると、通常人から嫌われている、危険性のある相手でも

選ぶ場合が起こります。

 

私はそういう選択をしました。

代償は高くつきましたが、得るものも大きかったです。

人生の醍醐味が味わえたわけです。

 

禁欲的につつましく生きると、

こういう選択は起きないでしょう。

人付き合いは最小にして、安定した道を選びます。

 

私も今は、年齢的に最晩年。

新しいことをしたいという願望はゼロ。

体力と気力の低下が激しい。

人付き合いは最小にし閉じこもりの生活です。

毎日、ほぼ同じことをしています。

同じことができるなら、それが最高というわけです。

 

生まれながらの冒険家もいます。

そういう人は、生涯、落ち着くことがないでしょう。

 

私は、少し冒険家ですが、普通に庶民です。

安定した生き方を求めます。

人生の最後くらいは、安定して静かに過ごしたいと思います。

 

今、私の生活は、一見、禁欲的ですが、

日々、楽しみや充実を求めています。

だから、努力や頑張りが不可欠。

最晩年になり、私もようやく、

努力や頑張りの大切さがわかったような感じです。