意識はどうして生まれるのか、その13。

このシリーズもそろそろ終わりが近い。

 

人の意識がどうして生まれるのか、

私の結論を書くと。

 

生きものの意識が誕生するのは、

すべて同じ理由。

 

それは、今現在の行動を選ぶ必要から。

どの方向を選ぶのか。

敵や捕食者が現れたら、逃げるか、戦うか、

あるいは、どこに隠れるか。

生きものは絶え間なく選択を迫られる。

そのような選択のために意識が誕生した。

 

過去の情報(記憶)と今現時点の情報を合わせて、

まとめて、一時に一括して感知できる認識装置が不可欠。

それが意識となる。

 

従って、すべての動物は意識をもつ。

意識の濃淡は種で異なる。

意識を支える記憶装置が種で異なるため。

 

人の場合は、映像の記憶量が多いため、

映像による意識が中心となる。

 

蟻の場合は、臭覚による意識となるだろう。

 

意識は、今、この瞬間の判断のために必要。

永遠や宇宙の真理を知るのは二次的な意味あい。

 

さらに、

人の意識にのぼる感知情報は限られている。

人の感知力には限界がある。

5次元の世界もわからない。

光やエネルギーのおおもとも分からない。

 

この世の外にある世界については、

感知できない、それが人の限界。

 

個々人の人の場合、

当人の意識が内包する情報量が非常に大きい。

意識下に蓄えられ、一生、意識されない情報が過大。

それらが、今現在の意識を支えている。

 

意識は、今を生きる生きものには、不可欠の本質。

これなくしては、生きられないだろう。

 

意識を不可逆的に失うのが死。

一時的に失うのは睡眠など。

 

意識を失うと今が消える。

 

生きものは、今生きるのが本質。

過去も未来も生きられない。

 

生きものにとって、死は、

今がなくなること。

 

今がなくなるだけである。

その他は、何も変わらない。

今は、個々の生きものと共にある。

個々の生きものが消えると、今も一緒に消える。

それだけである。

 

今は今あるだけ。

永遠の今など、ありえない。

 

生きものは死を体験できない。

体験は、今していることと同じ。

今があることと、同じ。

 

体験できないことは、幻想やまぼろしに近い。

 

従って、死はまぼろしとなる。

 

しかしながら、

生きものにとって、

今という時点の生。

それもまた、ほぼ、まぼろしに近いもの。

 

なぜなら、意識があるから感知できる。

意識は、現実をありのままに感知するものではない。

意識が感知するのは、あくまで当人にとっての現実世界。

かなり歪められた世界。

思い込みや偏執や執着や多様な好み。

 

当人の現実世界が、どの程度、外部の客観世界を反映しているのか、

それは、どこまで行っても平行線で不明のまま。

 

意識は、今時点の、当人の現実世界にすぎない。

宇宙の真理や法則などとは、無縁の世界。

だから、まぼろしともいえる。

 

人が生きることは、

まぼろしに近いが、

今、現時点の感受性や感性がある。

実感やクオリアである。

喜びや生きがいや快楽や楽しみ。

生きる意味や価値ともいえる。

 

まぼろしだが、

この世を天国や楽園にすることも可能。

なんでも実現できる。

どのような夢も叶えることができる。

人にとって不可能はない。

 

そして、人にとって、

死はまぼろし。

 

ある意味、

死によって、ようやく、

自分や私や自我という狭い牢獄から解放される。

 

死は、とても、ほっとできる体験。

最高に望ましい栄冠。

これ以上ない歓喜の瞬間。

まさに、長い旅路や困難なマラソンコースを駆け抜けた、

最後のゴールのテープを切るときの安堵。

喜びが内面から湧き上がる瞬間。

 

人生の最後に与えられた恩寵ともいえる。

 

二十歳のころ、

私がこの世に生を受け、私に与えられた固有のテーマは、

「人が生きるとはどういうことか?」

それを知ることだった。

その後、約60年の人生体験を重ね、

この難問がようやく解けたようだ。

 

「この世はマボロシだけど、

真摯にリアルに誠実に生きること。

それが人がなしえる最大のこと」

そんな結論が得られた。