自分の頭で考えるとはどういうことか、を書いている。

 

一般的に、すべてのルールや規則は、集団の現状維持が目的。

何故なら、現状維持で得する人たちがルールをつくるからだ。

既得権の保護。

大きな変革を認めない。

まさに今の日本社会のありよう、そのもの。

 

難しいことは考えずに、

ルールを守って生きていけばいいのではないか、

という意見もある。

 

しかし、ルールを守り、皆と同じにできない人もいる。

私もその一人。

例えば、小学生ともなれば、朝の挨拶は必須。

「おはようございます」

だが、吃音の生徒は、これが難しい。

ルールを守るのは至難。

 

学校では、相手の立場にたってものごとを考えよう、

教師たちは、同じことを言う。

そうしたら、いじめはなくなると。

しかし、相手の立場に立つとは、非常に難しい。

もちろん、教師にもできない。

 

私の吃音経験から言えること、教師は吃音について無知。

無知だから、吃音者の立場は理解不能。

 

もし、「おはよう」も言わない生徒がいれば、

こいつは生意気だ。

叱ってやろう。

 

私の出身中のPTAの会報、

中3生徒に、将来何になりたいか、尋ねている。

不思議にも、多数の意見が一致している。

「社会に役に立つ仕事がしたい」

まるで、社会奉仕に燃えているような印象。

 

中3で社会奉仕を考える人は、まずいない。

まだ、自己中心の世界から抜け出していない思春期。

いじめが起こるのも、自己中が多いから。

 

私の人生経験から言えること、

社会奉仕が生きがいなどと言う人は、非常にまれ。

私の40代と50代はボランティア中心の生活だった。

 

なぜ、中3生徒が皆、異口同音に同じような希望を書くのか。

それは簡単。

教師が、それがいいと教えているから。

教師推薦の模範解答なのだ。

中3では、自分の頭で考えることはタブー。

 

長い人生経験を経た私(75歳)でも、

相手の立場に立つのが難しい。

理解できない人たちは沢山いる。

小学や中学生では、まず、無理だろう。

 

いじめは悪いという。

いじめの当事者の立場に立って考えろという。

そんなことは到底無理。

細かな事情は、当事者しか分からない。

たぶん、当事者たちさえ、自分たちのこころの中を分かっていない。

心だけでなく、実際何をやっているのかも、知らないままに動いている。

教室の空気がいじめを助長していることもある。

それを言語化できる生徒はいない。

勿論、教師もできない。

 

私は小中高でいじめられた経験がない。

吃音なので、笑われたことはいっぱいあるが。

変なことをするので、笑われても当然と思っていた。

笑う方の気持ちは良く分かっていた。

笑われる方(私)の気持ちは、ぐっと我慢するしかない。

これは、長く続いた。

 

私には、どうしても分からなかったことがある。

例えば、足が不自由な人がつまずいて転ぶ。

平坦な道で、簡単に歩けるところで。

ぶざまに転ぶ。

 

傍から見ていると、おかしい。

失敗がおかしい。

なんとブザマな。

笑っても当然だろう。

笑うのが普通。

お笑い芸人の芸のように。

 

しかし、障害者をバカにするのは良くないと、

教師は言う。

相手の立場に立って考えてみよう。

 

普通以上に注意して、賢明に動こうとしても、

転ぶことがある。

そういう人をバカにして笑うのは、良くないと。

笑うのではなく、可哀想に感じて、同情しよう。

 

同情するというのは、相手を下に見て、

バカにしているのと同じではないだろうか。

同情しても、普通は、それだけ。

何もしない。そしてすぐに忘れる。

 

むしろ、大声で笑った方が、

人間的でいいと、私は思うのだが。

 

笑ったら、障害者はにらむかもしれない。

そうなれば、お互いの関係が始まるかもしれない。

 

つづく