私は神の存在を信じないが、

近頃、身の周りに何となく神を感じる。

神と言っても、宗教の神ではなく、人を超えた理解不能なあるもの。

私のいろいろな幸運も、これがもたらしているのかと。

 

私は社会について不安を感じることはないが、

時に自分と身辺の人について不安になることがある。

取り越し苦労、または予感、悪い予想をしてしまう。

そういう時に、

私の神はとても役立つ。

神に任せてしまえば、不安も消える。

 

言葉や概念は、こういう時に役立つ。

自分に向かい、話しかけているようだ。

自分自身へのコミュニケーション。

 

言葉の役割りは非常に明確。

社会をつくる生きものは、コミュニケーション手段をもっている。

「逃げろ危ない」「エサがある」などの重要情報を伝える。

コミュニケーションできないと社会が維持できない。

コミュニケーション手段は種によって多様。

人の言葉もその一種。

蟻やカラスやゾウも手段をもつ。

 

人の場合、言葉は、生後すぐに学び始める。

各言葉には意味があり、

集団内で伝われば、それで充分。

 

厳密に100%正確に伝える必要はない。

だいたいが伝われば、それでOK。

コミュニケーションはそういうもの。

 

言葉の役割りに、

真実や法則の探求を求めるのは、もともと無理。

 

言葉では、こころを伝えることもできない。

私的体験(クオリアなど)も伝えること不可能。

 

こころや気持ちも、だいたいが伝われば、それでOK。

小説などが求められるのも、そのため。

 

人の好奇心は、こころなど説明できない事柄を知りたいと望む。

宇宙や自然の法則を知りたいと望む。

しかし、言葉や概念しか手段を持たない人は、

だいたいのところで満足するしかない。

 

人の限界。