私の瞑想は内面との対話。

40年以上続けている。

 

その結果、実感するのだが、

内面を探しても、

自分や私や自我というものは、

どこにもない。

 

確かに、色々な声が聞こえる。

多様な意見や考え。

いろいろな体験もしている。

思いや感情も様々。

 

たとえば、吃音の体験。

これだけは、人に話しても、

分かってもらえる人は少ない。

当事者であっても、それぞれ事情が違う。

 

しかし、振り返って見て、

どこまでが私の経験か、それは不明。

私が知らないことが多すぎる。

私が知っているのは、わずかに一部。

とても偏った記憶と言える。

 

私が脚色した記憶でもある。

私の好みで作り上げている。

事実そのままではない。

それでも私や自分や自我と言えるのだろうか。

まるで、他人が書いた私の自伝に近い。

かなり真実味があるが。

 

私の好き嫌い。

ものごとの嗜好。

私独特の感性、感じ方。

それらは、私だけでつくったものではない。

成長の過程で、いつの間にか、そうなっていた。

多くの人の関与がある。

 

ある意味、私はロボットのようなものかもしれない。

ただし、ロボットを操縦するのは私ということになっている。

私には自由があると思っている。

 

しかし、それは建前。

そう思い込んでいるだけ。

 

私や自分や自我というのは、

思い込みや虚像のようなもの。

瞑想して、感じたことだが。

 

大昔、釈迦は無我という。

禅は、無の境地を目指す。

しかし、もともと私や自分はいないかもしれない。

無我は当たり前の幼稚な概念。

釈迦に言われなくても、誰でも分かる。

 

私の瞑想は、無の境地と無縁。

せめて、短い人生。

私や自分や自我という、はかないものを、

大切に扱ってやろうと思う。

はかなく脆く、壊れやすいものだから、

甘やかして、いい子いい子と褒めてやりたい。

 

(上記のブログは昨年7月23日のもの)