賢人はいない。という私の意見。

実は、大昔からある意見である。

特別に変わったものではない。

 

古来、優れた人は多い。

神や真理を信じる宗教者の中にも多いようだ。

私は、勿論、そんなものを信じないが。

 

「異端の時代」森本あんり著によると。

オリゲネス(185~254年)という神学者がいた。

迫害されて殉教した父から古典を学び、

若くしてアレクサンドリアの校長になり、

その後、多くの弟子を育てた、

アレクサンドリア学派の代表的神学者である。

 

オリゲネスはデキウス帝による迫害で死去するが、

一生を貫いて、食事、睡眠、労働、衣服、生活の全般で

禁欲的生活を送ったことで知られている。

常人に不可能な謹厳な生き方をしたようだ。

 

例えば、イエスの言葉、山上の説教で、

「誰でも、情欲をいだいて女を見る者は、

こころの中ですでに姦淫をしたのである」

この文言を真面目に受け取り、みずからを去勢した。

若かった彼は、男女の区別なく、聖なる学問を教えていた。

不信仰なものたちのゲスの勘ぐりを断ち切ったのだ。

 

彼の信仰では、

「あなたがたの天の父が完全にあられるように、

あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ福音書5章48節)

神が能力を与えられているのだから、我々はそれを目指さなくてはいけない。

必要なものは全て揃っている。

もし進歩がみられないなら、努力が足りないのだ。

怠惰にはいかなる釈明の余地がない。

 

いわば、キリスト教の原理主義である。

殉教こそ、救いに至る一番確かな道。

 

カントも同じことを書いているという。

人間は自然法則で因果律に支配されている。

自由ではない。

しかし、人間は道徳的判断と行為によって、

自然法則を超えることができる。

人間は道徳法則に従うときのみ、

自由意志があり、自由な存在であることを確認できる。

 

人間の善への能力は完全を目指すことができる。

これがオリゲネスの信念だった。

 

これに反するのが、

アウグスティヌスの教えである。

人間は原罪をもって生まれている、

みずから善をなす自由意志が損なわれていると。

人間は悪の前で無能力であるという。

 

使徒パウロも同じことを嘆く。

「善をしようとする意志は自分にあるが、その力がない」と。

ルターも親鸞も同じ罪の深淵を覗き込んでいる。

 

つづく