毎朝、窓のカーテンをあけて庭をみる。
それだけで幸せ感がふくらむ。
朝の瞑想も、最高に気持ちいい。
私の瞑想は内面との対話。
40年以上している。
その結果、分かったことがいっぱいある。
その一つ、
私にはオリジナルがないこと。
全てが借り物。
真実を言えば、私は無に等しい。
例えば、吃音の体験(約40年)、
これとても人口の1%はある、普通の体験。
例えば、
子が重度障害者になると親は幸せになるという実感。
これも、多くの人が言っている。
人は死を体験できないという事実。
これも、ごく普通の考えだろう。
死は怖くないという予想。
これも当たり前だろう。
自分は特別であるという実感は、
私にはない。
そもそも、自分や私や自我なども、実体がないマボロシ。
人はチリのようなもの。
お墓をつくって飾る必要はまったくない。
すぐに忘れられるのが最高にいいこと。
世の中には、自分に執着する人が多い。
自分だけは苦や痛から逃れたいと。
自分が余程好きなんだろうと思う。
永遠に生きたいという人までいる。
自分を愛しすぎているのだろう。
テレビはあまり見ないのだが。
テレビで有名になるのに憧れる人もいるようだ。
なんで、有名になりたいのだろう。
なんで、お金が欲しいのだろう。
私はとても不思議。
何かいいことがあるのだろうか。
もし、今の時代に、
釈迦が生まれ変わっていたら、
教えを説かないと思う。
その前に、世間に顔を出さないだろう。
21世紀前半、
世界は確実に変わりつつある。
例えば、日本でも、
男女平等がようやく、意識され始めた。
21世紀中頃には、
貧富の格差を是正する競争が、
世界の各国で始まる。
たぶん、民主主義や基本的人権が実質として機能する時代、
22世紀の扉が待っている。