人はあわれな生きもの。
自分が何者かも分からない。
これは、釈迦もキリストも同じ。
知性というのが、とくに頼りない。
この世のものごと、事象、ありさまの全てが、
分割できると思い込んでいる。
分割して細部に至ることができると。
あるいは、最小の単位があると、
素粒子があると、信じている。
そんなものはない。
この世のことは全て、分割不能。
すべてがつながっている。
細部は存在しない。
知性は単位を作りたがる。
しかし、この世には単位がない。
単位は人がつくった幻影。
数も存在しない。
単位がないからだ。
この世のことには、境目がない。
例えば、あなたと私。
境界はない。
あると思うのは、そう信じているから。
あなたと私の強いつながりを意識すると、
生きるのが大変になるから。
人が社会生活するには、
自分という主体の自立性が必要になるのだ。
実際のところ、あなたも私も何者でもない。
どこかで繋がり、融合しているが、
その関係性は、人に認知できない。
例えば、生と死。
境界はない。
どちらも、今しかない。
死は体験できない、
同様に生も体験できない。
人ができるのは、生の表面だけ。
深層のところは分からない。
こころの底までは分からない。
分割できると信じるのは自由だが、
実際は、連結している。
知性は、言語・概念を操る能力。
立派な能力であるが、
この世の真実までは、つかめない。
なぜなら、分割するのが知性の働きだからだ。
肝心なのは繋がり、人の知性で知りえない。
人である限界、悲しさでもある。