老人になり、生活範囲が狭くなる。

私の場合は、ほぼ引きこもり。

自分と家族中心の生活。

 

一番大事なのは、自分。

と言いたいところだが。

 

私は、自分などないと考えている。

自分や私というものは、この世にない。

自分がないから、自分が大事というのもありえない。

 

自分はないが、家族はある。

私の外界は、目で見えるありのまま。

これらは感じることができる。

 

なぜ、そのように考えるようになったのか。

それを書こうと思う。

 

40年以上、瞑想を続けている。

最近は、瞑想する時間が増えた。

暇になったのだ。

 

私の瞑想は、自己流。

その時その時でテーマは違うが、

自由連想で解決法を見つけてきた。

瞑想中は良いアイデアが浮かぶ。

人生を乗り越えるのに、とても役に立つスキル。

 

瞑想していると、

様々なイメージや観念が浮かんでくる。

いろいろな思いが現れては消える。

 

身体や肉体はしっかりと感じる。

呼吸と心臓の動き。

しかし、

私や自分というものは、どこにも感じない。

 

思いは、言葉の操作ともいえる。

一部、画像などイメージも入る。

 

言葉の世界は、ほぼ仮定や概念や抽象。

そこに実体はない。

マボロシ。

 

自分なるものを考えると、

そこもマボロシが詰まっている。

過去の思い出や連想。

これなど、完全に、マボロシ。

ほぼ、私の好みで作り上げた世界。

実体はない。

 

例えば、私は、10歳から50歳まで吃音。

吃音にまつわる記憶がいっぱいある。

とてもいい加減であいまい。

フィルターがかかっている。

当時の実感をそのまま、ありのままに、

再現できるわけではない。

脳の記憶力の限界。

ゆがんで変形している。

 

記憶の一番大事なところは、

例えば、愛や吃音やボランティア。

これらも、ほとんどが、

体験したと、信じ込んでいる思い出。

実際の現実とは、ほど遠いだろう。

偏執的なバイアスがかかっている。

 

この偏執こそ、私、そのものと、

言えないこともないが、

それもまた違う。

そうでない自分もいる。

 

このように自分や私は、

私にとっては、ほぼ謎。

分からないことばかり。

 

世の中に、自伝を書く人は多い。

自分のことを分かっているのだろうかと、思う。

思い込みたい、そう信じたいことを

自分の経験だと、誤解しているだけだろう。

 

瞑想中に、

いろいろなことを思うが。

一つ一つ、まさに、連想や刺激への反応にすぎない。

それは、意識の流れのようなもの。

私とは言えない。

譬えていえば、肉体固有の反応。

 

どこをどんなに探しても、

私はいないのだ。

 

庭に雨が降っている。

見える世界は、私の世界ではない。

私の所有物ではない。

私とは全く異なる世界。

私と切り離された別次元。

私にしか見えないこともあるが、

それはわずか。

 

肉体のイノチは感じるが、

私のイノチは感じない。

私はどこにもない。

 

つづく