お気に入りさんの日記に、

自分を愛することができない。とあった。

 

愛するとは、どういうことか。

若い頃から、私の大きな課題の一つだ。

 

人が愛するときは、

性やセックスが土台になっている。

青春時代は、性の目覚めもあり、

情動が激しく動く。

 

大人になれば、愛と生活が重なってくる。

社会の中で生きるので、

孤独な愛はありえない。

様々な人間関係の中で、

複雑なもつれを解かなくてはいけない。

 

人と人の愛では、

こころなどの内面的な要素が重要となる。

しかし、こころはつかみどころがない。

実体がない、輪郭もはっきりしない。定義も不能。

こころは人の意識の総体。

胚からの成長過程で人体が有する神経系などの記憶のすべての集合。

こころがどのようになっているのか、誰もわからない。

 

人は、皆、例外なく、

自分が何者か、わからない。

それが普遍的真理。

 

自分が分からない者たちが、愛し合う。

それは、仮面劇のようなものかもしれない。

 

さて、自分を愛するとは、何だろう。

自分のいいところに惚れるのだろうか。

 

私は、自分を愛するという感覚が理解できない。

もし、自分の中にいい面があったとしても、

それが、優れているという認識や実感は

どこからもやってこない。

 

自分だけの特性は、

どうなるのだろう。

他人と比較できない特性がいっぱいある。

それが、優れているかどうか、

そんなことは分からない。

 

自分固有の問題なのだ。

人にどうこう言われても、どうしようもない。

まして、自分で自慢しても無駄なこと。

 

私の場合、吃音が特性の一つ。

吃音は多様で各人で違う。

個々人は独自のやり方で立ち向かうしかない。

孤独なたたかい。

 

人生を振り返ってみたとき、

吃音は、私の自慢の一つ。

神からのプレゼント。

しかし、吃音を愛する気持ちにはなれない。

いくら宝物でも、愛することはできない。

 

人生では、誰も皆、それぞれ苦労する。

苦労して成長するにしても、

苦労を愛する人はいないだろう。

 

私もできることをやっただけ。

特別に偉いことはやっていない。

人並しかできない。

それで充分ではないだろうか。

 

つづく