人は生まれながら、自己中心。
自分の目や五感でしか、外界を認識できない。
若い頃は、経験も乏しいので、自己中も著しい。
そして、年取ると、
子どもの世話や、社会奉仕から解放され、
さらに、自己中となる。
身体の不調があちこちに生じ、気にせざるをえない。
体調を気遣う日々となる。
中には、人間嫌いの気難しい老人となる人もいる。
人間関係を避け、家に閉じこもる。
(私もこのひとりか)
たとえ、お付きが大勢いて、特別に配慮してもらえるとしても、
周囲の人たちへの気遣いがややこしい。
何がよくて、この世に生きているのか。
楽しい時代は、ほんの一瞬。夢のようだ。
人間であることの不条理とさびしさ。
生きることに疲れた。
傲慢な老人には、生きているという感謝がない。
弱き生きもの、人間として生まれ、長い一生を過ごし、
そして、最期に、ご褒美の死を迎えるという感謝がない。
生きることへの感謝とは、何だろう。
若い頃の私は、ボランティア中心の生活。
人権活動が中心。
その頃、考えていた。
例えば、人が難民となる。
突然に投獄される。
あるいは、事故や病気になる。
色々ないきさつはあるだろう。
もしかしたら、避けられたかもしれない。
前兆があったのかもしれない。
しかし、多くは、
逃れられない運命。
生まれた国、両親からの遺伝、あるいは友人たち。
人権問題で苦しむ人たちは、特に、
誰かの代わりという特徴がある。
誰かが表に出ないと、どうにもならない。
つまり、人権で苦闘している人は、
たまたま代理人にさせられたようなもの。
だから、こそ、関心を持つ人たちは、
その人を支援しないといけない。と。
自分の代わりに十字架にかけられているから。
ただし、人権問題は広く多様で、一概には言えないが。
生きることへの感謝とは、
70億を超えた人類社会の中で、
ひとりの構成員としての役割を知ることだと思う。
特に、未来の人類に対する責任。
子どもたちへの責任の自覚だろうか。
自覚しても、できないことはある。
何もできないと、という思いもあるかもしれない。
私はそうだが。
本能的に自己中にしかなれない人が、
死ぬまで、人としての責任を自覚すること。
それが、生きることへの感謝だと思う。
かなり、偉そうに書いたが。ペコペコ。