ネットを見ていたら、おもしろい記事が。

 

この社会の問題の一つに、

上に立つ人が三流、という現実があるという指摘。

企業や学校や政治の世界でも、

この現象が見られる。という。

 

人を一流とか三流とか、分けることが、

そもそも可能か、どうか。

私は、できないと思うが。

 

ある特定の能力や分野なら、

数値化できるかもしれない。

例えば、映像記憶力や計算力。

あるいは、運動能力などは可能だろう。

 

しかし、人の脳は、重層的かつ複雑で多様。

人の性格さえも、数値化できない。

人はそもそも多重人格性を隠している。

さらに、潜在的能力もある。

外に出ない面が深く豊か。

 

普通の人は、自分が何者かを捉えることもできない。

 

私は高校の頃から政治や社会に関心がある。

いくらか行動もしている。

さて、私を政治的に見て、一流かどうか、

たな卸ししてみると。

どうしても、三流だろう。

ちまたで憂さ晴らししている程度。

 

私の自慢は、数学や物理に関する生涯変わらぬ興味。

ひそかに、勉強を続けている。

さて、その方面の知識程度をたな卸しすると、

どうしても、三流となる。

高校生がやってきて、教えて欲しいと言われても。

すぐに対応できるレベルではない。

 

その他、私の自慢は、

人の心理やこころについての勉強を続けていること。

人を見る能力。または、人を愛する能力。

しかし、たな卸ししてみると。

よい点はつけられない。

ただ単に、情に脆いだけのようだ。

 

人を見る能力があれば、

友を選ぶのも、伴侶を選ぶのも、仕事を選ぶのも、

もう少し、上手にできたかもしれない。

ここも三流だろう。

 

私の人生は、全体的に、幸運の連続。

努力や能力のお陰は少ない。

 

全部を総合して判断すると、

私は三流の人間だろうか。

 

そんな私も、生きている間に、ひとりくらい、

一流の人に会ってみたいと思う。

 

ただし、最初に書いた記事では、

三流の人は、一流を理解できない。とあった。

もし、そうなら、

私に、一流の人が見えないのも当然か。

 

話は変わるが、

トランプさんは、人間性や識見については二流だが、

政治家としては、一流のアジテーターだ。

大衆社会で人々を扇動する能力は抜群だ。

こればかりは脱帽する。