人が生きている過程でこころにしまいこんだ、

あるいは、忘れてしまった、

思い出すことができなくなった、記憶や思いは、

たくさんありすぎて、

二度と意識に浮かばないものがほとんどだろう。

 

私は、小5から中3までの約5年間。

日曜だけのひきこもりだった。

 

日曜日は学校が休み。

普通の子どもは、外に出て遊ぶ。

その頃は、ゲームもない、塾もない時代。

野原で野球やチャンバラや、いろいろな集団でする遊び。

メンコやビー玉など。

 

私は、学級委員もしていた、

子ども会(約60名)の会長も、

友だちも沢山いた。

しかし、外に出ることはなかった。

 

家で一人遊びしていた。

紙で軍隊を作って、戦争遊び。

だいたい数百名の軍隊。

戦車や大砲も、

移動するにも時間がかかる。

兵隊ひとり一人が武器をもっている。

指揮官がいて、作戦をたてる。

座布団が山脈の代わり。

遊び一回に、数時間かかる。

飽きたら、ときに読書も。

そんな遊び方で、日中を過ごす。

 

どうして、外に出て遊ばないのか、

自分で理由を考えてみた。

たぶん、空想するのが好きだから。

ずっと長い間、そう信じていた。

 

高校になって、さすがに、

ひきこもりはまずい。

外に出るようになった。

友だちの家に行ったり、

町の本屋に行ったり、

図書館に行ったり。

 

50歳になり、

10歳から始まった吃音も完治した。

その頃、

知り合いの言葉の教室の教師から声をかけられ、

吃音の体験者として、

吃音経験について、人前で話す機会が与えられた。

 

人前で話すことは、すでに慣れていた。

おしゃべりは私の得意。

 

吃音の体験を振り返って語るのは、

私には、生まれて初めてこと。

思いつくままに、昔のことを話していた。

 

級長をしている時、

授業の初めと終わりに、

「起立、気を付け、礼」と合図する任務がある。

起立・気を付けは普通にできるが、

「礼」がどうしても口から出てこない。

毎時間のことだが、大変な思い。

 

喉とお腹をしぼりだして、無理やりに、声を出す。

お陰で、腹筋が強くなった。

 

礼の前に、誰かの名前を呼べば、

「礼」という言葉が出やすい。

「気を付け」と命令して、

クラスの誰かが、少し動くと、

級長は叱ってもいい。

 

だから、例えば、

「佐藤君、礼」という感じになる。

佐藤君と礼という言葉の間に、間を置けば、自然だが。

それでは「礼」が出てこない。

礼を出すには、佐藤君の後、すぐに、「礼」と言わないとダメ。

 

「佐藤君、礼」では、ちょっとおかしい。

クラスの数名は、くすくすと笑う。

それでも、「礼」と言ったから、私の任務は終了。

 

吃音のエピソードを話せば、いっぱいある。

吃音は、24時間の苦痛。

眠っているときも、夢に見る。

寝ているときくらいは、吃音から解放されたかった。

 

吃音のお陰で、いろいろと問題を背負った。

勉強恐怖症がある。

試験勉強ができなくなった(高2から30歳位まで)。

最初の大学は、吃音が理由で止めた。

いろいろある。

 

吃音は、言葉を使うとき、常に、つきまとう。

社会生活は、言葉なしではやっていけない。

 

吃音者の数は多い、皆よくやっていると、

私は思う。

 

言葉の教室で話していると、

私のひきこもり体験の話題となり、

その理由はと思うと、

それまで、考えたこともない理由が浮かんでいきた。

 

ああ、なんだ、吃音で、人と話すのが嫌だから、

日曜だけのひきこもりになったのだ。

実に単純な理由。

それ以外にない明快な原因。

 

それなのに、約40年間も、

私の頭に、吃音が理由でひきこもり、という理屈は

浮かんでこなかった。

 

これが不思議。

こんなに簡単で単純なことが分からないとは。

 

人のこころは、うまくつくられている。

もし、吃音で苦しんでいた若い頃。

吃音の苦しみを意識して自覚して直視していたら。

私は吃音の現実を乗り越えられなかったと思う。

人は、そんなに強くはない。

 

どんなに力んでも、頑張ってもできないこと。

克服できないこと。

圧倒的に巨大な相手に対して、

戦いを挑むことはできない。

無視して逃げるしかない。

感じないようにする。無感動になる。

鈍感になる。

苦しみを意識下に抑えつける。

抑圧する。

平気な顔をする。

それしか出口はない。

いじめ、虐待、緘黙なども、同じだと思う。

 

本人は平気な顔をしているので、

まわりは気づかない。

教師も親も知らない。

 

私は、長い間、約40年。

苦しみを抑え、意識しないようにしてきた。という

にがい事実、現実、真実を

知ったのだった。