遠藤周作からの引用、もう一つ。

「眠れぬ夜に読む本」より

 

二年ほど前、NHKから思い出の場所の取材を受けるため、

久しぶりに灘高を訪れたことがある。

授業が終り、生徒たちが教室からぞろぞろ姿をみせた。

3、4人の生徒をつかまえて話しかけてみた。頭のいい返事がかえってきた。

どこを受けるのかと聞いたら、皆、

「東大」

と言下に答えた。

きっとこの生徒たちは、いつかは優秀な官僚や医師や大学教授になるだろうと思った。

だが、一人の小説家も、もう灘高からは出まい、一人のすばらしい画家も、一人の俳優もこの学校から出ないのではないか、という不安に似た感情が私の胸には起きてきた。

理由ははっきりは言えない。しかし将来は「東大」と間髪を入れず返事するような生徒には、

国語の教科書を文章を読んでも、文章は結局、受験の対象でしかなく、彼の人生の一部分とはならないだろう。

それが悪いといっているのではない。しかし、私のような人生を送った者にはやはり昔の灘中がなつかしく、今の灘高がちょっぴり寂しかったのも事実である。

私は受験勉強なるものをまったく否定するわけではないが、率直に言うと、あれは勉強ではないと思っている。

15、6歳から17、8歳まではもっとも少年少女の多感な時代である。多感だから、その時、

何を読ませるか、どう読ませるかを一人の教師が教えるだけで、その子供の人生は随分とふくらみ、可能性を持つことができるのだ。

この年齢の時に、「本当の勉強」をせねばならぬのに、今の高校生は受験勉強という

「嘘の勉強」をやむをえず強いられている。あれが、私などには何としても気の毒でならない。

 

引用終わり。

 

受験勉強に過剰適応すると、どんな人間になっていくのか。

周作さんも感じるところがあったのだろう。