幼児期に性的虐待を受けた人は、
虐待されたという事実を受け入れるのが
とても難しい。
まず、虐待されたという認識自体がない場合が多い。
経験ない人には信じられないだろうが。
認識がない、意識に登ってこない。
しかし、こころのダメージは歴然とある。
多くは、よい自己イメージをつくれない。
自分のことを、汚れた価値がないもの。
混乱し、自分の衝動を抑えられない。
こころのダメージは、
事実を受け入れて、
自分の尊厳を取り戻すまで続く。
それができないと、
精神的に追い詰められる場合もある。
私の場合は、
小学高学年から始まった吃音。
吃音の程度は軽いうちに入るかもしれない。
吃音は、軽い方がむしろ大変。
まわりの人々が、どもりとして対応してくれる方が
楽になることもある。
軽い場合は、隠そうとして、ある程度成功する。
しかし、成功するとしても、
隠し続けなくてはいけない。
それは不可能。
社会から完全にドロップアウトすれば可能だが。
私の吃音は10歳から50くらいまで。
小学高学年から中学の、
約5年間、日曜だけの閉じこもりだった。
友達もたくさんいて、学級委員もして、
なんで、日曜だけ閉じこもっていたのか。
その理由として、私は、
多分、空想が好きで、一人遊びが私の楽しみだった
と、50過ぎまで思い込んでいた。
吃音が治った頃、言葉の教室の先生に誘われて、
吃音の経験者として話す機会があった。
それまで、吃音について考える時は、
どのように、最初の音を発するか、とか、
現実的な問題が中心だった。
吃音の経験者として、
自分の経験を話しているうちに、
日曜だけの閉じこもりを説明しなくてはいけなくなった。
すると、何故、閉じこもっていたのか。
その理由が、すぐに、判然と明白になった。
吃音が苦しくて、
誰とも口をきかないですむ、
我が家での閉じこもり、
そこにしか逃げ場がなかったという事実。
こんな単純なことが、
40年以上も意識に登ってこないという。
そこに、再度、びっくり。
軽い吃音でも、こんな感じだから、
まして、幼児に受けた虐待など、
意識にあげること自体が、
とても難しい。
こころは、
自分にとって不利で危険で嫌な事柄は、
意識されないように、
巧みに押し殺してしまう。
こころは自分を守るために、
なんでもする。
こころの不思議さの、ひとつ。