考えることを始めたのが小学高学年からと

前回書いた。

 

私の場合、吃音という難問に遭遇したのが

転機だ。

 

まったく突然に、訳も分からず、

吃音が始まった。

 

この事態を何とか乗り越えようとした。

あくせくして、

どんなに試みても、

努力して、

懸命に努めても、

まったく徒労に終わった。

 

親や先生に助けを求めるべきだったのだろうか。

 

しかし、

とりあえず、ごまかすことができる。

大きな問題を生じずに、

誰も気づかないうちに、

こそっと、

誰にも知られないで、

忍び足で、

修羅場を逃れることができた。

 

こんな体験が続くと、

親や先生に相談しようとする気持ちが

薄れていった。

 

実際、その当時、誰かに相談しても、

まったく、効果はなかったと思う。

今は、少し状況はいいが。

 

しかし、この事態について、私は、

いろいろと考えなくてはいけなかった。

何故、何故、

 

吃音は、

口から言葉を発することができない、

毎日、何度、声を出すだろう。

これを何とかしないと。

 

私の考えるという経験は、ここから始まったのでは

ないかと思う。

 

人がものを考えるのは、

考えなくてはいけない状況に

ぶつかることが

きっかけになるのではないだろうか。

 

それに比べて、私の

覚える経験は、3歳くらいから。

 

祖母が読んでくれる本を、

そらで覚えることができたという。

 

2歳くらいの幼児は、

ほぼ百%を記憶できるという実験結果もある。

3歳の子供が、本を暗記するくらいは容易な話だ。

 

勿論、3歳の子供に言葉の意味は分からない。

暗記している文の意味はちんぷんかんぷんのはず。

しかし、暗唱は完璧。

 

覚えるのは、

人間の子供にとっては、

やさしいこと。

はいはいから歩くようになる、

同じくらい自然はことだ。

 

つづく