違法アップロードされた動画に助けられて生きている留学生活です。軽犯罪ですね。わかってます。
根がテレビっ子なんですよ。
そういうわけで、違法アップされたマツコデラックスの番組で、日本の教師と外国人教師が教育について議論をするというのを見ました。
外国人教師(確かアメリカ人だったと思う)が、「日本の子供達は個性がない」と噛み付くと、今まで反論をしなかった日本人教師が「個性のない子供なんて一人もいない、そういう言い方はないんじゃないか」と強く言い返しました。
オーケーグーグル、二人を落ち着かせて。
そもそも「個性」という概念自体が日本とアメリカじゃ大違いなので、個性云々の話を異文化間でするのは結構不毛です。不毛とまではいかないけど、なんか別の単語を開発した方がいい。
アメリカは人種のるつぼですので、ただ生きているだけで個性があります。
アメリカ国籍保持者がいっぱい入った箱の中に手を突っ込んで、適当に5人抜いたら、2人は肌が白くて髪が金、一人が私に見た目が似ていて、一人が肌が黒くて髪がくるくる、一人が肌が茶色くて眉毛が濃いと思います。
そのくらい、見るからに違うのです。
その上、彼らは隙があれば自分アピールをしてきます。
僕はこんなことができる、過去にこんなことがあった、私の得意なことはこれだ、などと隙があれば言ってきます。レジュメなんて自慢大会です。受け手がこの人はどんな人なんだろう、と予想することなく、ああこういう人なんだってわかります。
言葉だけじゃなくて、着るもの、身につけるもの、見えるものすべてにアイデンティティが詰まっています。
つまり、先に出てきたアメリカ人教師が言った、「日本の子供は個性がない」はみんな同じように「見える」という意味なんだと思います。
そりゃあ当たり前だ、ほぼ全員同じ肌と髪と目の色をし、同じ制服を着せられ、基本黙っている。1ミリでも出る杭は打たれてしまうところで暮らしている子供をみれば「この子達の個性は何?」となってしまってもおかしくない。
対して日本人の先生。
日本人がいう「個性」は内面のことを重視します。そりゃあ全く同じ考えや特技を持った子なんて一人としていません。先生は一人一人の内側を鑑みて「個性」を見つけ出します。きっと書かれた文章や作られた作品を見てその子を知ろうとしているんだと思います。実際私が触れてきた先生方はみんな魔法使いのように私のことをよくわかっていました。本当にすごいなあと思います。
日本人が世界で負けちゃうのは外に出すのが苦手だからです。
言わなきゃ伝わらない国に住んでいる人に、言わなくても伝わっちゃう文化に住んでる人が言い合いで勝てるわけがなかろう。
見た目判断してるアメリカ人はバカだとか、ちゃんと内面が見られる日本人がすごいとか、逆も然り、そういうことを言ってるわけじゃなくて、外に出していかないといつか喧嘩で負けるよ、って話。
で、これは教育が悪いわけでは全くないと思います。改善できるのは教育だと思うけど。
日本は農耕民族ですから、みんなで一列に並んで田植えをするように、「和」「調和」を重んじるDNAが流れています。
対してヨーロッパ人は狩猟民族ですから、一人一人が自分の家族を食わすために狩りをします。他人なんて知りません、自分がまず生きるため、というDNAが流れています。
これはさあ、しょうがないやん。そればっかりは。
だから無駄に個性を伸ばすとか大きい言葉を指導要領に書き連ねて、すべての子どもに表現を強要するんじゃ全く意味がないと思うんですよね。総合の時間が始まった頃からの指導要領マジで嫌い。ずっと安い、言葉が。
・・・・・こういうこと書くと公立の学校とかに採ってもらえなくなるんだろうか。ネットって怖いね。
個性とかいうガバガバすぎる定義で人の話をするのはやめよう。
となると、人間のことを一人一人違う種を持つ花だと歌った槇原敬之はすごい。
(最近毎回パソコンからブログを投稿しているので、ケータイで見ると改行が多いの気にくわない。見づらくてごめんなさい)
(ていうか最近の子どもってもしかしてケータイって言わないのかな・・・・・・・)(子どもってお前も子どもだろガキが)